投稿者:SHIKUAN

面授

禅の伝統においては、師から弟子への「面授」こそが修行の核心とされています。面授とは、文字や言葉を超えた直接伝授であり、師が弟子と向き合い、沈黙と眼差し、存在をもって仏法を伝える行為です。
面授によってまず、弟子の奥底に潜む菩提心の火が点火され、内なる誓願が目覚めます。その目覚めを契機として、弟子は師が保持する深遠なる法脈のエネルギーに結ばれ、直指人心の導きによって仏心を自覚し、聖なる智慧の歩みを進めるのです。

ただし、この面授は外形的な模倣や知識の伝達では決して成り立ちません。真に師たる者と真に弟子たる者が、因縁熟して出会ったときにのみ現成する稀有な出来事なのです。

道元禅師は、師・如浄禅師からの面授を象徴的に表現しています。
「釈迦牟尼仏の仏面を礼拝したてまつり、釈迦牟尼仏の仏眼をわがまなこにうつしたてまつり、わがまなこを仏眼にうつしたてまつり、仏眼睛なり、仏面目なり」
道元禅師にとって、真の師と相見することはすなわち釈迦牟尼仏に相見することであり、面授とは時空を超えて仏と仏が相まみえる出来事であったのです。

禅の法脈は、この面授の法門によって保たれ、釈尊の「正法眼蔵」は決して途絶えることなく、今もなお現代に生き続けています。

合掌 無為

家にとどまるな、森へ逃れるな

家にとどまるな、森へ逃れるな。
ただ、今ここで、己が心を見よ。
人が完全なる悟りに至るとき、
サンサーラはどこにあり、涅槃はどこにあるのか。
― サラハ(ラーフラバトラ)のドーハーより

己事究明を志す者は、家に安住してはならない。かといって、森や洞窟に籠ることによってのみ修行が成り立つわけでもない。
観ずべきを観ようとしないならば、それは修行を口実にした逃避にすぎない。
真の道場は、常に自らが立っているこの場であり、参究すべきは己が心の本性である。
その本性が顕れ出るとき、あらゆる場所が直ちに真実の場となる。主客という二元対立を超越した、原初より不生なる法性の境地において、はたして迷うべきサンサーラや、求むべきニルヴァーナは存在するのだろうか。

合掌 無為

※ サラハ(ラーフラバトラ)・・・チベット仏教カギュ派などに伝わるマハームドラーの法脈の祖師であり、禅の法脈の西天十六祖 羅睺羅多尊者。

酷暑

先月から酷暑が続いておりますが、こんな時期に相応しい公案があります。

『碧巌録』第四十三則
「寒時寒殺闍黎 熱時熱殺闍黎」

挙す。僧、洞山に問う、「寒暑到来す、如何が回避せん」。山云く、「何ぞ無寒暑の処に向かって去らざる」。僧云く、「如何なるか是れ無寒暑の処」。山云く、「寒時は闍黎を寒殺し、熱時は闍黎を熱殺す」。

暑さ寒さに成り切り、人境一致の境界になっていれば、もはや暑いという「人」が居なくなる。それが暑さから逃れる道なのだというのです。

日本の禅では、自己意識を対象化して見つめる「二人連れ」からの解放を目指し、自己を忘れる修行に専念します。禅で水平方向の悟りが強調されているのはその為です。(勿論、垂直方向の道も本来の「禪」にはあります。)

暑さから逃げてクーラーの効いた部屋に引きこもりたくなるものですが、思い切って暑さの中に飛び込んで作務でもしますと、良い汗もかけて案外元気でいられるものです。中国武術の教えでは一年の中で最も暑い時期、寒い時期にはあえて屋外で練習をさせます。そうやって身体のポテンシャルを引き出すのでしょう。

しかしながら、近年の暑さは極端ですから、体力に合わせた判断も必要ですね。悪戯に限度を超える無理をし続けるのは法ではありません。酷使するのでも、過保護にするのでもなく、身体を「養っていく」という感覚が、現代人には必要でしょうか。
皆様、この夏も楽しく健やかにお過ごし下さい。

合掌 無為

法脈の意志

ここ数年の伝法活動の展開、そして参禅者やサンガの成長には、まことに目覚ましいものがあります。
先日、雨安居の夏末大接心までの行事をすべて終え、わたし自身、さらに新たな地平に立ったことを深く実感しております。

SNSなどではまだ明かせませんが、チベットの伝承にも見られる深遠なる法脈の意志が、いま、現実のものとして立ち現れてきています。
縁に照らし出されるようにして、これからの使命や役割を、あらためて明確に再認識する時となりました。

ここに至るまでには、さまざまな苦難がありましたが、これまで歩んできた道は何ひとつ間違っていなかったのだと、答え合わせができたような節目でもありました。

佛の導きと、皆様の温かい応援、そして日々の御精進に、心より感謝申し上げます。

これからも、古来の法脈の伝統に深く根ざしながらも、現代社会に通じる実践的な佛道を、誠実にお伝えしてまいります。

合掌 無為

『楞伽経』における涅槃

ボーディ・ダルマが慧可に伝えた四巻『楞伽経』に「涅槃は、如真実の義の見なり。先に妄想の心・心数法を離れ、如来の自覚聖智を逮得するを、我は是れ涅槃なりと説く。」とあります。ここで説かれている分別意識の止滅に伴う聖智の目覚めが、釈尊の菩提樹の下での一見明星による悟りにあたります。また、経典自体を伝えるのが禪の目的ではありません。あくまで、それを方便の媒体として用いながら、そこで説かれている内実そのものを伝えていくのが禪の法脈の本来の役割です。

無明の破壊と自我の完全なる死滅を伴う真の自覚聖智に至るまでには、自ずからプロセスがあり、修行者の性質によって見える景色は様々です。
今、このサンガで多くの参禅者達が目覚め始めていますが、本当の意味で正師の存在が必要になるのは、覚醒のプロセスが始まってからになります。

目覚めの一瞥は誰にでも起こり得ることですが、その後、自身の現在地が分からなくなり、自我を増長させたりしてかえって道を見失うことさえあります。また偏差やクンダリーニ症候群などの身体的トラブルが起きたり、魔境や霊障などアストラル領域の存在の影響に絡め取られたりする方もいます。現在は、精神世界の分野もまだまだ成熟してはおらず、多くの混乱が見られます。探求の熱意が本物であればある程に危険性も増すものです。

道を求める方々が勝縁を結ばれ、それぞれが真っ直ぐに正道を歩まれることを願っては止みません。大切なのは自分自身を誤魔化さないこと、そして、真理への誠実さです。

合掌 無為

摂心

今年もまた、摂心の季節が巡ってまいりました。今も正に、その静けさと緊張が満ちる時空の中に在ります。

摂心は、一定期間サンガと共に在り、一切の諸縁を断って「ただ坐る」という、極めてシンプルですが、禅の修行の真骨頂であり、道場において最も尊ばれる修行形態のひとつです。無始劫来の無明により見失ってしまった、心の真源を取り戻す為のこの期間は、人生の中でも特別な時間となります。

それは俗世間や情報の奔流から一歩身を引いて休息する「リトリート」などではありません。むしろ「存在」としての全責任を引き受け、真正面から生死を見据える為の厳粛な場です。ですから禅では、摂心などの参禅修行のことを「生死の一大事」といいます。

そして、摂心を終えた後、あなたは元の場所に戻るのではなく、同じ景色がまるで違って見える地点に立っていることに気づくと思います。仏法は「転依」、すなわち世界そのものの見え方を根底から転ずる道でもあります。摂心にはその可能性が満ちています。

摂心は、その期間、坐禅堂の中だけで完結するものではなく、むしろ終わった瞬間から、その人の人生全体に、香るように、深く、不可視の作用を及ぼしてゆきます。やがてそれは世界にも波及していくことになるでしょう。

あなたのその歩みが、ご自身の大切な人達の為の、世界の為の、光と成らんことを。

合掌 無為

カリ・ユガに生まれし光

深く 深く

星の声すら届かぬ時代

神々は天を閉ざし

地は動乱に満ち

人は狂乱を恣にし

あるいは嘆きの中に沈黙していた

言葉は堕ち 儀式は空転し

偽の光が

世界を覆い尽くした時

声なき存在が

嵩山の洞窟に

坐していた

面壁九歳

声なく 姿なく

ただ真っ直ぐに 

心の真源に沈みゆく

戒律を説かず 経論を立てず

あの 神の様な眼差しで

ただ 見よ と

漆黒の闇の向こうの

一点の光

人々はそれを

と呼んだ

禪と禅宗

達磨大師から慧可大師へ伝わった「禪」は、釈尊から摩訶迦葉尊者へ一子相伝的に継承された仏教の秘教的道でした。
最近の禅学研究によると、現在の禅宗に直結する祖師は馬祖道一と言われています。黎明期の禪の祖師を顕彰し、そのエネルギーを受け取った彼らが形成した「禅宗」はやがて国家権力とも結びつき、沢山の寺院に巨大な伽藍を構えるまでに発展し、宋代に隆盛を迎えていきました。
法脈として地上に長く残るものとなりましたが、禪の本来の生命は形式の中に次第に隠れていった側面もあります。それは地上に法脈を定着させることと引き換えの宿命ですが、源泉が枯渇してしまえば、形式の崩壊と共に法脈は完全に途絶えてしまいます。
形式は時代と共に変わっていくものですが、護るべきものは護らなくてはなりません。禪の真の生命を甦らせるべく、サンガの皆と共に働いていきます。今年も摂心を予定しています。真摯に法を希求する方のご参加をお待ちしています。


合掌 無為

魔界入り難し

風狂の僧、一休が残した書に「仏界入り易く、魔界入り難し」という言葉あります。
清浄な仏国土の様な理想郷には喜んで入って行くことが出来るが、理想とは程遠い穢れた地獄の様な処に飛び込んで行くことは、たとえ熟達した修行者でも困難であるということです。
ナーガールジュナによれば、真の菩薩は、衆生の苦しむ様子に心を痛め、悟りや禅定の幸せさえも捨てて、自ら無間地獄にも飛び込んでいくといいます。
もちろん、悟りを捨てた菩薩の心が再び迷いに落ちてしまうということではありません。差別の世界に於いて縁に自在となれる境地があります。「煩悩即菩提」という些か誤解され易い言葉がありますが、サンサーラとニルヴァーナが境目無く溶け合い一体となる境地(無住処涅槃)が大乗仏教の目指すところです。
この濁世に於いて、人類に原初の光を降ろし啓明していく奉仕活動は決して容易な仕事ではありませんが、有情を守りたいと願う者達はたとえ輪廻の泥沼に生まれても、湖に咲く蓮華の花びらのようにその汚れにまみれることはありません。

合掌 無為