語録・経典2『無門関』第一則 趙州狗子

『無門関』第一則 趙州狗子

 

【本則】

趙州和尚、因みに僧問う。狗子に還って仏性有りや也た無しや。

州云く、無。

 

(本則訳)

ある時、僧が趙州和尚に尋ねた。「犬にも仏性が有りますか?」

趙州は云った、「無」。

 

【評唱】

無門曰く、参禅は須らく祖師の関を透るべし。妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。祖関透らず、心路絶せずんば、尽く是れ依草附木の精霊ならん。且く道え、如何が是れ祖師の関。只者の一箇の無字。乃ち宗門の一関なり。遂に之を目けて禅宗無門関と曰う。透得過する者は但だ、親しく趙州に見えるのみに非ず、便ち歴代の祖師と手を把って共に行き、眉毛厮い結んで同一眼に見、同一耳に聞く可し。豈に慶快ならざらんや。透関を要する底有ること莫しや。三百六十の骨節、八万四千の毫竅を将って、通身に箇の疑団を起こして箇の無字に参ぜよ。昼夜提撕して、虚無の会を作すこと莫れ、有無の会を作すこと莫れ。箇の熱鉄丸を呑了するが如くに相い似て、吐けども又吐け出さず。従前の悪知悪覚を蕩尽して、久々に純熟して自然に内外打成一片ならば、唖子の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。驀然として打発せば、天を驚かし地を動ぜん。関将軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於いて大自在を得、六道四生の中に向って遊戯三昧ならん。且らく作麼生か提撕せん。平生の気力を尽くして箇の無の字に挙せよ。若し間断せずんば、好だ法燭の一点すれば便ち著くに似ん。

 

(評唱訳)

無門はいう。禅に参ずるなら、必ず祖師が設けた関門を通らなければならない。妙なる悟りのためには、徹底的に分別意識の流れを断ち切る必要がある。祖師の関門を通らず、分別意識を根絶させることが出来ないような者は、草木にとりすがる幽霊のようなものである。さあ言え、祖師の関門とは一体何か。只この「無」の一字、これが禅宗の関門である。これを禅宗無門関と名付ける。この関門を通ることができたならば、趙州和尚に直接対面できるだけでなく、歴代の禅師達とも手を繋いで行くことになる。つまり、眉毛まで合致するように彼らと一心同体となり、同一の眼で見、同一の耳で聞くことが出来るようになるのだ。なんと素晴らしいことだろうか。この関門を透過しようとする者はいないか。三百六十の骨節と八万四千の毛穴をあげて、全身で一つの大疑団となり、この「無」字に参じよ。昼も夜も間断なくこの公案を引っ提げよ。虚無の無だとか、有無の無だと理解してはならない。それは真っ赤に焼けた鉄の塊を呑みこむようなもので、吐き出そうにも吐き出せない。それまでの誤った認識を根絶やしにして、「無」そのものとなった時、自然と内と外がひとつになる。それは聾唖者が夢を見るようなもので、本人だけが体験し納得するのである。突如、関門が突き破られれば、天は驚き、地は震えるだろう。それは、まるで関羽将軍の大刀を奪い取ったようなもので、仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺す程の勢いだ。生死の際で自由自在を得、六道輪廻の苦しみの中に於いて融通無碍の境地になるだろう。さて、どのように「無」の一字に参じるべきか。持てる気力を尽くして、「無」そのものになれ。もし絶え間無くそれを続けることが出来たならば、ある時、灯明に火が灯るように光明がもたらされるだろう。

 

 

【頌】

狗子仏性、全提正令。

わずかに有無に渉れば、喪身失命せん。

 

(頌訳)

狗子仏性の公案、仏の正しい法令を余すことなく現せ。

わずかにでも有無に関われば、命は無い。

 

 

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《禅〜意識の真源に帰る旅〜》

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