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弥勒の唯識

弥勒菩薩が無著に伝えた唯識の教えに依れば、私達の心の本性は真如・法界であり、虚空の様に全宇宙に遍満しているのだと云います。それ即ち大生命です。

魚が水から離れて存在しない様に、鳥が空から離れて存在しない様に、一切衆生は大生命から離れて存在していません。

大生命に目覚めるには、輪廻の主体である一切種子識(阿頼耶識)を止滅させ、「見るもの/見られるもの」の二元対立を超えた真如・法界に参入する必要があります。

それを今生のうちに実現する道が禪です。

合掌 無為

原初の「禪」へ

原初期の禪の実像については、今まで多くの事が謎に包まれており、宗門においても達磨大面壁九年などの逸話が伝説として語り継がれるのみでした。ダルマの語録『二入四行論』や、ダルマが慧可に託したとされる四巻『楞伽経』も、専門道場で取り扱われることはありません。

しかし、それらの語録や経典などを紐解いていくと、禪の本質に直接繋がる重要な鍵が隠されています。例えば、チベットのゾクチェンやマハームドラーと共通する修行の方法論、「不立文字」の元となった言葉、頓悟と漸悟の可能性、更には意生身や如幻三昧身など後期密教で扱われる領域に関する言及も見られます。『楞伽経』は、『究竟一乗宝性論』などにある如来蔵思想やマイトレーヤの唯識がベースとなっていますが、中観派の教えとも矛盾することなく、高度に統合されています。

最近では敦煌文献の研究も進んでおり、禪に対するイメージや歴史が覆る様な発見もある様です。秘されていた真実が表に現れくる時代かもしれません。またそれに呼応するかの様に、ダルマを希求する方々が此のサンガに集ってこられています。新たな時代の幕開けです。

合掌 無為

無常と永遠

アーリヤデーヴァ(禪の第十五祖 迦那提婆尊者)の『四百論』に「汝が、過ぎ去った時は短いが未来は違うと見るなら、汝は等しいものを等しくないと考えている」とあります。過ぎた過去があっという間に感じる様に、これから来たる未来も同様にあっという間に過ぎてしまうものです。「少年老い易く学成り難し」。人生の根底には無常という真実の厳しさがあります。

禅の道場には、音で時刻を知らせる工夫があり、その一つに打板があります。禅堂の外に板木が掛けてあり、それを木槌で叩いて、時を知らせるのです。その板木には「生死事大 光陰可惜 無常迅速 時不待人」と書かれています。修行者に、無常の自覚を促し、策励する意味があります。無常を自覚し、生死を越えることを禪は修行の眼目としています。

釈尊は初転法輪で「耳ある者どもに不死の門が開かれた」と説きました。生じたものではない「不生なるもの」に目覚めるように仏陀は人々を導いたのですが、大乗仏教ではそれを常住不変の「仏性」や「如来蔵」という言葉で表現しています。禅の修行者は、この儚き無常の人生の中で、「歴刧無名の這箇」、つまり指をさすことも名付けることも出来ない〈永遠に知られざるもの〉を探求するのです。

合掌
無為

令和八年元旦に

新年明けましておめでとうございます。参禅者の皆様におかれましては、仏天の御加護のもと、益々御精進のうちに令和八年丙午歳をお迎えになられましたこと、法幸至極に存じます。

私達は皆ひとつに繋がって存在しています。人類の大転換期と言われる今の時代に、佛道を歩まれていることは、一個人の修行の為というだけではなく、世界にとっても大きな奉仕となり得ることです。

スピリチュアルな分野でも自我の不安を煽りながら利己主義に傾かせるものが増えてまいりました。しかしながら、発心が正しくなければ、そのスピリチュアルな歩みの先には、魔道に堕ちる可能性があります。佛道を歩む上で最も大切なのは菩提心です。参禅をされる皆様には、どの様な状況下においても、絶えず菩提心の炎を燃やし続けて頂きたいと願います。この一年も、全ての存在に功徳が巡らん事を祈りながら、共にダルマの道を歩んでまいりましょう。

皆様のご健勝と佛道の成就を心から祈念致しております。

合掌 無為

光源窟サットサン

光源窟サットサンへのご参加ありがとうございました。

陰極まれば陽と転ずると言いますが、どんな暗黒の様な状況にも必ず光が生ずる可能性が潜在しています。夜は必ず明け太陽は昇ります。漆黒の闇の中にこそ、光の一点は鮮烈に輝きを放つものです。

日本国内だけでなく世界規模でみてもカオスといいますか、大変な時代になってきております。

そんな中においても、このサンガの皆様には、自らの修行を深めると共に、常に世界に対して光を放つ様な存在となっていって頂きたいと願います。

やがてはその光の点が同士が繋がり光の曼荼羅となり、世界を明るく照らす確かな力となっていくことでしょう。

世界の平和と皆様の佛道成就を心よりお祈り致しております。

光源窟

臘月

臘月、この一年間の集大成の月です。 改めて振り返ると、この一年間は本当に稀有にして濃厚で、私にとっても、このダルマの法脈にとっても大変重要な転機の年となりました。

大摂心に参加された方々が体感されてるところですが、サンガに降り注ぐ深淵な法脈のエネルギーは格段と増してきております。来年からはより本格的に物質次元にも現れていくことでしょう。

常日頃から熱心に参禅をされている方は、実によく精進されておられました。相応の試練もありながら、それを越えて開けた心境に至ることが叶った所得多き一年になったと思います。それぞれの感動的な場面にも数多く立ち合わせて頂きました。指導者としても嬉しい瞬間でした。

例年であれば臘八小摂心と断臂摂心を終えれば、その歳の大きな行事はひと通り終了ですが、今年は最後に光源窟サットサンが開かれます。新たな時代の幕開け、魂の扉を開く時です。

合掌 無為

摂了

今年も仏天神祇の大いなる御加護のもと、雪安居入制大摂心を無事に円成することができました。

参禪なさった皆さまには、雪を担いで河を埋むが如く、坐禪専一に取り組んでいただきました。その純粋なエネルギーはサンガに満ち、長年の修行の成果が華開きつつある方も多く、素晴らしい摂心となりました。

華の開く時機は人それぞれに異なりますが、正しい修行を相続し続ければ、必ずや華は開くものです。今回の摂心での皆さまの気づきと成長は、それを静かに物語っておりました。

佛道に対する「信」が熟すまでには、人によっては紆余曲折があることでしょう。しかし、それらもまた欠くことのできない因果の一環です。自己に親しみ、ひとつひとつの歩みを大切に重ねていくことで、ある時ふと景色は変わり始めます。

さらに、日常生活における目の前の一挙手一投足こそダルマの実践の場であると、言葉ではなく体験で理解した時、「信」は自ずから備わってくるものです。「信」そのものとしての在り方は、修行者を守護し、導いてくれるものになってまいります。

どうか、ご自身に結ばれた法縁を深く信じ、大安心のうちに佛道の歩みを進めれますこと、心よりお祈り申し上げます。

合掌 無為

雪安居入制大摂心

いよいよ明日より「雪安居入制大摂心」が始まります。

これまで長年にわたり、忍耐と激動の道を歩んでこられた方には、今回の摂心は、まさに「新たな時代の扉が開かれていく」ような契機となることでしょう。

その「新たな時代」とは、外の世界が変わるということだけでなく、あらためて自己の本質と出逢い、それを生きていくことでもあります。

そして、摂心を終え、再び日常へと帰るとき、そこにはきっと「新たな世界」が広がっているはずです。

刻苦光明、必ず盛大なり。

どうぞ、仏道を信じ、本来仏である己を信じて、始終、揺るぎなき「菩提心」をもって坐っていただきたいと思います。

合掌

無為

面授

禅の伝統においては、師から弟子への「面授」こそが修行の核心とされています。面授とは、文字や言葉を超えた直接伝授であり、師が弟子と向き合い、沈黙と眼差し、存在をもって仏法を伝える行為です。
面授によってまず、弟子の奥底に潜む菩提心の火が点火され、内なる誓願が目覚めます。その目覚めを契機として、弟子は師が保持する深遠なる法脈のエネルギーに結ばれ、直指人心の導きによって仏心を自覚し、聖なる智慧の歩みを進めるのです。

ただし、この面授は外形的な模倣や知識の伝達では決して成り立ちません。真に師たる者と真に弟子たる者が、因縁熟して出会ったときにのみ現成する稀有な出来事なのです。

道元禅師は、師・如浄禅師からの面授を象徴的に表現しています。
「釈迦牟尼仏の仏面を礼拝したてまつり、釈迦牟尼仏の仏眼をわがまなこにうつしたてまつり、わがまなこを仏眼にうつしたてまつり、仏眼睛なり、仏面目なり」
道元禅師にとって、真の師と相見することはすなわち釈迦牟尼仏に相見することであり、面授とは時空を超えて仏と仏が相まみえる出来事であったのです。

禅の法脈は、この面授の法門によって保たれ、釈尊の「正法眼蔵」は決して途絶えることなく、今もなお現代に生き続けています。

合掌 無為

家にとどまるな、森へ逃れるな

家にとどまるな、森へ逃れるな。
ただ、今ここで、己が心を見よ。
人が完全なる悟りに至るとき、
サンサーラはどこにあり、涅槃はどこにあるのか。
― サラハ(ラーフラバトラ)のドーハーより

己事究明を志す者は、家に安住してはならない。かといって、森や洞窟に籠ることによってのみ修行が成り立つわけでもない。
観ずべきを観ようとしないならば、それは修行を口実にした逃避にすぎない。
真の道場は、常に自らが立っているこの場であり、参究すべきは己が心の本性である。
その本性が顕れ出るとき、あらゆる場所が直ちに真実の場となる。主客という二元対立を超越した、原初より不生なる法性の境地において、はたして迷うべきサンサーラや、求むべきニルヴァーナは存在するのだろうか。

合掌 無為

※ サラハ(ラーフラバトラ)・・・チベット仏教カギュ派などに伝わるマハームドラーの法脈の祖師であり、禅の法脈の西天十六祖 羅睺羅多尊者。

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《禅〜意識の真源に帰る旅〜》

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