『盤珪禅師語録』 御示之聞書
禅師衆に示して曰、皆親のうみつけてたもったは仏心ひとつでござる。餘のものはひとつもうみつけはしませぬ。その親のうみつけてたもった仏心は不生にして、霊明なるものに極まりました。不生な仏心、仏心は不生にして霊妙なものでござって、不生で一切がととのいまするわいの。その不生でととのいまする不生の証拠は、皆の衆がこちらむいて、身ども(われ)がこう云う事を聞いてござるうちに、うしろにて鳥のこえ雀の聲が通じわかれて、間違わずにきこゆるは、不生で聞というものでござるわいの。その如くに一切事が、不生でととのいまする。これが不生の証拠でござるわいの。その不生にして霊明な仏心に、極まったと決定して、直に不生の仏心のままで居る人は、今日より未来永劫の活き如来でござるわいの。今日より仏心で居るゆえに、わが宗を仏心宗といいますわいの。
ところで、不生にして居れば、最早不滅というも、むだ事でござれば、身どもは、不生というて不滅とは申さぬ。生ぜぬものの、滅するという事はなきほどに、不生なれば、不滅なものはいはむでも知れてある事でござるわいの。不生不滅という事は、むかしから、経録にも、あそこ、ここにも出てござれども、不生の証拠がござらぬ。それゆえに皆人が、只不生不滅とばかり覚えて、いいますけれども、決定して不生な事を、知りませぬわいの。