【原始仏典】
初転法輪『サンユッタニカーヤ』
修行僧らよ、出家者が実践してはならない二つの極端がある。・・・一つは諸々の欲望において欲望に耽ることであって、下劣・野卑で凡愚の行いであり、高尚ならず、ためにならぬものである。真理の体現者はこの両極端に近づかないで、中道を悟ったのである。・・・
修行者らよ、真理の体現者のさとった中道とは・・・それはじつに〈聖なる八支よりなる道〉である。すなわち正しい見解、正しい思惟、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念(おも)い、正しい瞑想である。・・・
じつに〈苦しみ〉は次のごとくである。生まれも苦しみであり、老いも苦しみであり、病いも苦しみであり、死も苦しみであり、・・・。
じつに〈苦しみの生起の原因〉は次のごとくである。それはすなわち、再生をもたらし、喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求めるこの妄執である。
じつに〈苦しみの止滅〉は次のごとくである。それはすなわち、妄執の完全に離れ去った止滅であり、・・・。
じつに〈苦しみの止滅に至る道〉は次のごとくである。これはじつに聖なる八支よりなる道である。すなわち正しい見解、正しい思惟、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念(おも)い、正しい瞑想である。
非我『サンユッタニカーヤ』
そこで世尊は五人の修行者の集いに説かれた。
「修行僧らよ。〈物質的なかたち〉(色)は我(アートマン)ならざるものである。もしもこの物質的なかたちが我であるならば、この物質的なかたちは病にかかることはないであろう。また物質的なかたちについて『わが物質的なかたちはこのようであれ』『わが物資的なかたちはこうあることがないように』となしうるであろう。しかるに物質的なかたちは我ならざるものであるがゆえに、物質的なかたちは病にかかり、また物質的なかたちについて『わが物質的なかたちはこのようであれ』『わが物資的なかたちはこうあることがないように』と為すことができないのである。
〈感受作用〉(受)は我(アートマン)ならざるものである。・・・
〈表象作用〉(相)は我(アートマン)ならざるものである。・・・
〈形成作用〉(行)は我(アートマン)ならざるものである。・・・
〈識別作用〉(識)は我(アートマン)ならざるものである。・・・
修行者らよ。汝らはどのように考えるか。〈物質的なかたち〉(色)は常住であるか、あるいは無常であるか。」
「物質的なかたちは無常であります。尊い方よ。」
「では無常なるものは苦しいか、あるいは楽しいか」
「苦しいのであります。尊い方よ」
「では無常であり苦しみであって壊滅する性質のあるものを、どうして『これはわがものである』『これは我である』『これはわが我(アートマン)である』と見なして良いだろうか」
「よくはありません。尊い方よ」
「〈感受作用〉(受)は常住であるか、あるいは無常であるか。・・・
〈表象作用〉(相)は常住であるか、あるいは無常であるか。・・・
〈形成作用〉(行)は常住であるか、あるいは無常であるか。・・・
〈識別作用〉(識)は常住であるか、あるいは無常であるか。・・・
「それゆえに、修行者らよ、ありとあらゆる物質的なかたち、すなわち過去・現在・未来の、うちであろうと外であろうと、粗大であろうと微細であろうと、下劣であろうと美妙であろうと、遠くにあろうと、すべての物質的なかたちは『これはわがものではない。これはわれではない。これはわれの我(アートマン)ではない。』と、このようにこれを如実に正しい叡智によって観察すべきである。
ありとあらゆる感受作用は、・・・表象作用は、・・・形成作用は、・・・識別作用は、・・・
修行者らよ、このように見なして、教えを聞いたすぐれた弟子は、物質的な形を厭うて離れ、・・・貪りから離れるから、解脱する。解脱した時に〈すでに解脱した〉と知るにいたる。『生存はすでに尽きた。清らかな行いは修せられた。なすべきことはなされた。もはやこの世の生存を受けることはない』と確かに知るのである」
世尊はこのように説かれた。五人の修行僧の集いは心喜び、世尊の所説を喜んで受けた。そしてこの〈決まりことば〉が述べられたときに、集うた五人の修行者は執着なく、もろもろの煩悩から心が解脱した。
ニルヴァーナ『ウダーナヴァルガ』
修行者たちよ、生ぜず、成らず、形成されず、条件付けられていないものが存在する。
修行者たちよ、この生ぜず、成らず、形成されず、条件付けられていないものが存在しないならば、この世に於いて生じ、成り、形成され、条件付けられた事柄から出離することが知られることは無いであろう。
修行者よ、生ぜず、成らず、形成されず、条件付けられていないものが存在するからこそ、生じ、成り、形成され、条件付けられた事柄から出離することが可能なのである。
自性清浄心『増支部経典』第1巻10.5−8
比丘たちよ、この心は明浄である。(しかし)それは客塵煩悩によって汚されている。比丘たちよ、この心は明浄である。(実に)それは客塵煩悩から離脱している。
三宝印『ダンマパダ』273〜279
諸々の道のうちでは〈八つの部分よりなる正しい道〉が最も優れている。もろもろの真理のうちでは〈四つの句〉(=四諦)が最も優れている。
諸々の徳のうちでは〈情欲を離れること〉が最も優れている。
人々のうちでは〈眼ある人〉(=ブッダ)が最も優れている。
これこそが道である。〔真理を〕見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い。
汝らはこの道を実践せよ。これこそが悪魔を迷わして〔打ちひしぐ〕ものである。
汝らがこの道を行くならば、苦しみを無くすことが出来るであろう。〔棘が肉に刺さったので〕矢を抜いて癒す方法を知って、私は汝らにこの道を説いたのだ。
汝らは〔みずから〕つとめよ。諸々の如来(=修行を完成させた人)は〔ただ〕教えを説くだけである。心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるだろう。
「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
毒矢の喩え『マッジマ・二カーヤ』
ある人が毒矢に射られて苦しんでいるとしよう。彼の親友、親族などは彼のために医者を迎えにやるであろう。しかし矢にあたったその当人が「私を射た者が、王族であるか、バラモンであるか、庶民であるか、奴隷であるかを知らないあいだは、この矢を抜き取ってはならない。またその者の姓や名を知らないあいだは、抜き取ってはならない−」と語ったとする。それではこの人は、毒がまわる前にこうしたことを知りえないから、やがて死んでしまうであろう。それと同様に、もしある人が「尊師が私のために、世界は常住であるか、常住ならざる者であるかなどについて、いずれか一方に断定して説いてくれないあいだは、わたしは尊師のもとで清らかな行いを実修しないであろう」と語ったとしよう。しからば、修行を完成した師はそのことを説かれないのであるから、そこでその人は毒がまわって死んでしまうであろう。
毒矢の喩え⑵『ウダーナ・ヴァルガ』
人々は自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている。このことわりを或る人々は知らない。実に彼らはそれをみに刺さった矢であるとは見なさない。
毒矢の喩え⑶『スッタニパータ』939
想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執着に汚されることなく、(煩悩)の矢を抜き去って勤め励んで行い。この世もかの世も望まない。
この矢に貫かれた者は、あらゆる方向をかけめぐる。この矢を引き抜いたならば、駆け巡ることもなく、沈むこともない。939
四諦『マッジマ・二カーヤ』
しからば、わたしは何を断定して説いたのであるか。「これは苦しみである」「これは苦しみの起こる原因である」「これは苦しみの消滅である」「これは苦しみの消滅に導く道である」
ということをわたしは断定して説いたのである。これは目的にかない、清らかな修行の基礎となり、世俗的なものを厭い離れること、欲情から離れること、煩悩を制し滅すこと、心の平安、優れた英知、正しい悟り、安らぎのためになるものである。それゆえにわたしはこれを断定して説いたのである。
自己『ウダーナヴァルガ』
・戦場において百万人の敵に勝つとも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、実に不敗の勝利者である。
・自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、このように明らかな知恵ある修行者の勝ち得た勝利を敗北に転ずることは、神々も、なし得ない。ガンダルヴァ(天の音楽神)たちも、悪魔も、梵天もなし得ない。
・先ず自分の身を正しくせよ。次いで他人を教えよ。
・自分が他人に教えるとおりに自分でも行なえ。
・この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?賢者は自分の身をよくととのえて、明らかな知恵を獲得する。
・この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?賢者は自分の身をよくととのえて、いかなる束縛をも断ち切る。
・この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?賢者は自分の身をよくととのえて、すべての悪い生存領域を捨て去る。
・この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?賢者は自分の身をよくととのえて、すべての苦しみから逃れる。
・この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?賢者は自分の身をよくととのえて、ニルヴァーナの近くにある。
慈しみ『スッタニパータ』143〜152
究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪(むさぼ)ることがない。
他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意(こころ)を起すべし。
また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。
上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。
立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地(brahmavihārā ブラフマンの境地)と呼ぶ。
諸々の邪まな見解にとらわけず、戒(いましめ)を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。
迅速『スッタニパータ』915〜920
[問うていわく──]「太陽の裔(すえ)である偉大な仙人(ブッダ)、あなたに、遠ざかり離れることと平安の境地とをおたずねします。修行者はどのように観じて、世の中のものを執することなく、安らいに入るのですか?」
師(ブッダ)は答えた、「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。
内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。
これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想せずにおれ。
修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内面的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。
海洋の奥深いところでは波が起こらないで、静止しているように、静止して不動であれ。修行者は何ものについても欲念をもり上げてはならない。」
洞窟についての八つの詩句『スッタニパータ』772〜779
窟(いわや)(身体)のうちにとどまり、執著し、多くの(煩悩)に覆われ、迷妄のうちに沈没している人、──このような人は、実に<遠ざかり離れること>(厭離)(おんり)から遠く隔たっている。実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである
欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させてくれるのではないからである。かれらは未来をも過去をも顧慮(こりょ)しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。
かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇(りんしょく)で、不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、──「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と。
この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、わたしは見る。下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。
(何ものかを)わがものであると執著して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである。──諸々の生存に対して執著することなしに。
賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。
想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。
『マハーパリニッバーナ・スッタンタ』
「アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完(まった)き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は、存在しない。『わたくしは修行者のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は、『わたくしは修行者のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。
アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。譬(たと)えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。
しかし、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一部の感受を滅ばしたことによって、相の無い心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、彼の身体は健全(快適)なのである。
それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」
「アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹は楽しい。ゴータマカ霊樹は楽しい。サッタンバカ霊樹は楽しい。バフプッタ霊樹は楽しい。サーランダタ霊樹は楽しい。チャーパーラ霊樹は楽しい。」
「この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ」
『ウダーナ・ヴァルガ』
二一
不生なるものが有るからこそ、生じたものの出離をつねに語るべきであろう。作られざるもの(=無為)を観じるならば、作られたもの(=有為)から解脱する。
二二
生じたもの、有ったもの、起ったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じるもの、―――それは喜ぶに足りない。
二三
それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。
二四
そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空もなく、識別作用もなく、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたしはよく知っている。
二五
来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。―――それが苦しみの終滅であると説かれる。
二六
水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ―――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。
二七
そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、形なきものからも、一切の苦しみから全く解脱する。
二八
さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。
二九
これは最上の究極であり、
無上の静けさの境地である。
一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。』