アーカイブ:2026年2月

原初の「禪」へ

原初期の禪の実像については、今まで多くの事が謎に包まれており、宗門においても達磨大面壁九年などの逸話が伝説として語り継がれるのみでした。ダルマの語録『二入四行論』や、ダルマが慧可に託したとされる四巻『楞伽経』も、専門道場で取り扱われることはありません。

しかし、それらの語録や経典などを紐解いていくと、禪の本質に直接繋がる重要な鍵が隠されています。例えば、チベットのゾクチェンやマハームドラーと共通する修行の方法論、「不立文字」の元となった言葉、頓悟と漸悟の可能性、更には意生身や如幻三昧身など後期密教で扱われる領域に関する言及も見られます。『楞伽経』は、『究竟一乗宝性論』などにある如来蔵思想やマイトレーヤの唯識がベースとなっていますが、中観派の教えとも矛盾することなく、高度に統合されています。

最近では敦煌文献の研究も進んでおり、禪に対するイメージや歴史が覆る様な発見もある様です。秘されていた真実が表に現れくる時代かもしれません。またそれに呼応するかの様に、ダルマを希求する方々が此のサンガに集ってこられています。新たな時代の幕開けです。

合掌 無為

無常と永遠

アーリヤデーヴァ(禪の第十五祖 迦那提婆尊者)の『四百論』に「汝が、過ぎ去った時は短いが未来は違うと見るなら、汝は等しいものを等しくないと考えている」とあります。過ぎた過去があっという間に感じる様に、これから来たる未来も同様にあっという間に過ぎてしまうものです。「少年老い易く学成り難し」。人生の根底には無常という真実の厳しさがあります。

禅の道場には、音で時刻を知らせる工夫があり、その一つに打板があります。禅堂の外に板木が掛けてあり、それを木槌で叩いて、時を知らせるのです。その板木には「生死事大 光陰可惜 無常迅速 時不待人」と書かれています。修行者に、無常の自覚を促し、策励する意味があります。無常を自覚し、生死を越えることを禪は修行の眼目としています。

釈尊は初転法輪で「耳ある者どもに不死の門が開かれた」と説きました。生じたものではない「不生なるもの」に目覚めるように仏陀は人々を導いたのですが、大乗仏教ではそれを常住不変の「仏性」や「如来蔵」という言葉で表現しています。禅の修行者は、この儚き無常の人生の中で、「歴刧無名の這箇」、つまり指をさすことも名付けることも出来ない〈永遠に知られざるもの〉を探求するのです。

合掌
無為