『楞伽経』
・唯識瑜伽行学派の経典
・五法(名、相、分別、正智、真如)
・三性(遍計所執性、依他起性、円成実性)
・八識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、マナ識、アーラヤ識)
・二無我(人無我、法無我)
・意生身、聖種類身体、如幻三昧身
・自性清浄のアーラヤ識を説き如来蔵と同一視する
・如来の自覚智(自覚聖智)=菩薩が二無我相、及び二障浄によって、諸地相を度り、究竟通達して如来の不思議究竟境界を得る
ボーディ・ダルマが慧可に伝えた四巻『楞伽経』に「涅槃は、如真実の義の見なり。先に妄想の心・心数法を離れ、如来の自覚聖智を逮得するを、我は是れ涅槃なりと説く。」とあります。ここで説かれている分別意識の止滅に伴う聖智の目覚めが、釈尊の菩提樹の下での一見明星による悟りにあたります。また、経典自体を伝えるのが禪の目的ではありません。あくまで、それを方便の媒体として用いながら、そこで説かれている内実そのものを伝えていくのが禪の法脈の本来の役割です。
〈抜粋〉
・如来蔵は無始以来、種々の戯論の習気に薫習されているので、アーラヤ識と名づけられる。
・水銀が塵垢に汚されずに清浄であるように、一切衆生の拠りどころであるアーラヤ識も清浄である。
・それゆえ、マハーマティ(大慧菩薩)よ、如来蔵であるアーラヤ識を完全に知るという、一切如来のこの境界に対して、そなたと他の菩薩大士たちは努め励むべきである。
・如来が覚りを得た夜から入滅する夜に到るまでの間、如来はただの一字も説かなかったし、また、説くことはないであろう。
・真実は文字を離れているのであるから、善男子、善女人は言葉のままの意味に執着することに慣れてはならない。指を見てはならない。例えば、指で誰かにあるものを教えようとすれば、その者は指先だけを見るにとどまるであろう。
・一切の経典の教説は、凡夫たちの自らの妄分別を満足させるものであって、真の聖智を建立するものではない。それゆえに、意味に従うべきであって、教説の文言にとらわれてはならない。