禅入門講座〜不立文字の禅僧達が残した言葉〜
禅
・禅とは仏心なり、律とは外相なり、教は言説なり、称名は方便なり、これらの三昧みな仏心より出たり。故に此宗を根本とするなり。(聖一国師『仮名法語』)
・衆生本来仏なり。水と氷のごとくにて。水を離れて氷なく。衆生の他に仏なし。(白隠『坐禅和賛』)
仏心(仏性)
・問曰、本有の仏性とはいかなるものぞ。
答曰く、一切衆生に自性あり、此性は素より不生不滅なり、常住不変なり。故に本有の自性と名く。三世の諸仏も一切衆生も此性を本地法身とす。(聖一国師『仮名法語』)
・大いなるかな心や。天の高きは極む可からず、しかも心は天の上に出づ。地の高きは測る可からず、しかも心は地の下に出づ。(栄西『興禅護国論』)
・あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。(道元『正法眼蔵』即心是仏)
・諸仏と一切衆生とは唯だ是れ一心にして、更に別法なし。此の心は無始より巳来、曾て生ぜず、曾て滅せず、青ならず黄ならず、形なく相なく、有無に属せず、新旧を計せず、長に非ず短に非ず、大に非ず小に非ず、一切の限量名言、蹤跡対待を超過して、当体便ち是、念を動ずれば即ち乖く。猶虚空の辺際あることなく、測度すべからざるが如し。唯だ此の一心、即ち是れ仏にして、仏と衆生とは更に別異なし。(黄檗希運『伝心法要』)
坐禅
・夫坐禅の宗門と云ふは、大解脱の道なり。諸法は皆此門より流出し、万行も此道より通達し、智慧神通の妙用も此中より生じ、人天の性命も此中より開けたり。(聖一国師『仮名法語』)
・若し妄を捨てて真に帰し、壁観に凝住して、自他凡聖等一に、堅住して移らず、更に文教に随わざれば、此れに即ち理と冥符して、分別有ること無く、寂然として無為なるを、此れ理入と名づく。(達摩の語録『二入四行論』)
・外、諸縁を息め、内、心喘ぐこと無く。心、墻壁の如くして、以て道に入るべし。(圭峰宗密『禅源諸詮集都序』)
・心、牆壁あり、いまだ泥水せず、いまだ造作せず。(道元『正法眼蔵』即心是仏)
・箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。此れすなわち坐禅の要術なり。(道元『普勧坐禅儀』)
・外、一切善悪の境界に於いて、心念の起らざるを、名づけて坐と為す。内、自性を見て動ぜざるを、名づけて禅と為す。(『六祖檀経』)
法を体現するということ
・日々是好日(雲門文偃)
・仏法は用功の処無し。祇、是平等無事、 屙屎送尿著衣喫飯、困し来たれば即ち臥す。 愚人は我を笑ふ、智は乃ちこれを知る。(臨済義玄)
・随所に主となれば、立処皆真なり。(臨済義玄)
・眼横鼻直なることを認得して人に瞞ぜられず。(道元)
・水鳥の行くも帰るも跡絶えて されども路をわすれざりけり(道元)
・君、見ずや、絶学無為の閑道人 妄想を除かず真を求めず(永嘉玄覚)
・主なくて見聞覚知する人を いきほとけとはこれをいふなり(至道無難)
・生きながら死人となりてなりはてて 心のままにするわざぞよき(至道無難)
・あら楽や虚空を家と住みなして 須弥をまくらにひとり寝やせん(一休)
「禅入門講座」というタイトルにさせていただきました。こちらに集まられる方は長年ヨーガ、あるいは瞑想、坐禅などの実践をしてこられているので、割と突っ込んだ話をしていただいても構わないということでしたので、レジュメも少し難しめの内容になっています。何が難しいかというと、日本で禅を学ぶとなると漢文から逃れることができない、という言語上の難しさです。皆さんは禅、坐禅に対して、どういうイメージをもたれますか?例えば、お寺で坐禅をします。しかめっ面をしたお坊さんが警策という棒を持っていて、寝ていたらパシンと叩かれるとか。また、禅語にはいろんな言葉がありますが、大体漢字で表現します。禅問答という言葉もありますね。何を言っているのか分からないけど、とても奥深いものを想像させる。でも、そもそも禅というのは何なのかと端的に聞かれた時に、明解に答えられる方というのは、少ないかもしれません。私たちが禅だと思っているものは、いわゆる日本の、特に鎌倉・室町時代以降の文化的側面なのですね。禅文化としての「禅」というものを、私たちは印象として受け取っていて、外観の部分に触れてなんとなく禅的な雰囲気を感じ、それに触れることが学びだと感じているような気がします。
レジュメに入る前に、まず根本的なところを、禅の言葉を使わずにお話したいと思います。禅の法理さえ押さえておけば、難しい禅の言葉、仏教書、経典も読んで理解できるようになります。そんな話を最初にしたいと思います。
皆さん、道元禅師という方はご存知ですか?とても有名な方で、日本ではとても人気のあるお坊さんです。曹洞宗の開祖と言われますが、開祖ではないですね。正確に言えば中国にある曹洞禅を伝えられた方だと言われております。道元禅師ご自身は曹洞宗という呼び方は好んでいらっしゃらなかったそうです。もっと言えば、禅宗という言葉もあまり好きではなかったようです。禅宗とも言って欲しくない。じゃあどのように呼ぶべきか。「仏道」である。あるいは「仏心宗」仏の心を伝えているものであると。本来は宗派などを論ずるべきではない、というような主旨で、仰っていたそうですね。現在では日本で禅宗といいますと、表面的には、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、という三つの宗派があります。仏教宗派で言うならば、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、いろんな宗派があって、日本仏教っていうのは全て宗派仏教になっています。
こちらの正面にお祀りされているのはお釈迦様ですね。仏教はお釈迦様から始まったものです。いろんな宗派があるように見えても、それらを遡るならば仏陀の教えに行き着かなければ、仏教とは言いにくいですね。禅というのは、その釈尊の教えの大元に帰ろうとした、一つの営みであったと言ってもいいと思うのです。禅を中国に伝えたのは、インドのボーディ・ダルマ(達磨大師)というお坊さんです。達磨大師は、釈尊から数えれば二十八代目の祖とされています。釈尊が体現されたダルマを弟子たちが脈々と後世に伝えていって、二十八代目になる達磨大師がインドから中国に渡られて、中国の禅宗二祖になる慧可大師に法を伝えられた。その後、中国で禅は大きく発展していきますが、その流れの中で、臨済宗、曹洞宗と、家風の違いによって、個性の違いによって、いろんな派に別れていったということです。日本には鎌倉時代に、建仁寺ご開山の栄西(ようさい)禅師や、永平寺ご開山の道元禅師などがそれぞれ法を伝えられて、それが今に伝わっています。だから「禅」という呼称を道元禅師が好まれなかったというのは、「そういう表面的なものを伝えたのではない。釈尊の体現された悟り、仏の心を伝えたのだから、仏心宗である。仏道そのものである」ということを仰っていたわけです。では仏道とは何か。今ご紹介した道元禅師の言葉に「仏道をならうというは自己をならうなり。」とあります。仏教を学ぶということは、自分自身を学ぶこと、自分自身の勉強をすること、と仰っています。ですから今日の「禅入門講座」というのは、「仏道入門講座」であり、「自分自身を学ぶ入門講座」であると受け取っていただきたいと思います。
仏教の経典、禅の語録などを通じて、様々な言葉で、先人たちは真理を伝えようとしてくれていますが、具体的に何を伝えているかというと、それは皆さんご自身の真実のあり方を伝えて下さっている訳です。自分自身の真実のあり方、本当の自分とは何かです。皆さんだったら、「あなたは誰ですか?」と聞かれたら、どのようにお答えになりますか?「あなたは誰ですか?」と聞かれたら、例えば、名前を答えます。それ以外には、職業、年齢とか、性別とか、自分という人間に対してこう思っているというようなこととか、好きなもの、趣向とかいろんな説明を答えるのが普通です。しかし、仏道をならう時には、すなわち自己をならう時には、もう少し丁寧にものごとを見ていっていただきたいのです。
「あなたは誰ですか?」と聞かれて答えた時、それは果たして絶対的なものだろうか。それは普遍的な答えなのだろうか。そういうところまで少し突っ込んで考えていただきたいのです。例えば名前はどうでしょう?女性であれば、ご結婚されたら名字が変わります。そもそも名前なんて、あるタイミングでご両親やご親族の方が付けられたものですね。お腹の中にいる時に付けられたのかもしれませんし、生まれた時に付けられたのか分かりませんが、ある時から名前を付けられた。ということは、それは完全に「私のもの」とは言えない。年齢というのも仮に付けられた数字ですね。どんどん増えていきます。今自分がこういう性格であるとか、キャラクターであるという個性も、もちろん子どもの時からずっと引き継いでいるものもあるかもしれませんが、いろんな出会いによって、学びによってそれも変化していく。子どもの時からずっとあると思っている自分の性質だって、それも縁によって作られている。ということは、そのキャラクターも絶対的なものとは言い切れない。完全にそれ自体が自分であるということも言い切れない。
職業や立場というのも当然そうですね。昨日まで社長だった人が、次の日からホームレスになることもあります。もちろんその逆もあります。絶えず変化し続けます。家族の中では主婦だけれども、仕事に行けば課長とかバイトとか、そういう役割として振る舞っている。友人の中ではその関係性の中で一つの役割を演じている、あるいは果たしている。ですから、そういった社会的な立場、役割というものも、絶対的なものとは言い切れない。自分の本質そのものとは捉えられないですね。
肉体はどうでしょう?皆さんはその肉体を「これは自分のものだ、これが私の身体だ」と思って使っておられます。自分のお腹が空くからご飯を食べる、自分の身体が疲れたから休む。自分のものだと思って使っていますね。でも皆さんの肉体というものも、ご両親の縁によって授かったものであり、年々刻々と変化し続ける現象であるともいえます。例えば、自分の髪の毛とか、爪とか、勝手に伸びています。自分の意思とは関係なしに伸びています。心臓も勝手に動いていますね。どうしようもなく勝手に動いています。ヨーガだったら呼吸法とかします。呼吸を制御、コントロールすることで、ある一定の効果を狙っていくような行法がありますが、その呼吸だって吐き続けることも吸い続けることもできない。止め続けることにも、限界があります。限界がきたらやっぱり、息を吸う訳です。「自分の身体だ」と思って使っているその肉体も、「自分のもの」として言い切れるものかどうか。
日本では、年間三万人ぐらいの方が自殺をされているのを皆さんご存知でしょうか。大雑把に計算したら、一日百人ぐらい自死を選ばれている訳です。その選択をせざるを得なかった方は、自分の肉体の生命活動を強制的に止めるということをされる訳なのですが、強引な手段をもって、その肉体の生命活動を止める訳ですね。首を吊ったりとか、電車に飛び込んだりとか。なんでこんな話をするかというと、皆さんのそのお体が本当に自分自身の肉体であれば、「死にたい」って思ったら自分の意思でピタッと止められるはずです。でもそれができないから、そういう強引な手段をもってそういうことを行う訳ですね。
それでは、なぜ死にたくなるほど人は苦しむのか。もちろん肉体的なご病気を持たれて、肉体的な痛みとか障害であるとか、そういうものも幾分かはあるかもしれません。実際に生活していくのが大変でお金がなくてとか、いろんな外的要因もあるかもしれないですが、それはあくまで要因の一つであって、根本的には心が苦しいからだと思うのです。心が死ぬほど苦しいから、そこに至ってしまった。しかし、その心というのは本当に自分のものなのでしょうか。皆さんが自分の心だと思うものは、どこにあるのでしょうか。もし、どこかにあるとしたら、それは本当に自分自身のものなのでしょうか。人が一番苦しんでいるのは、例えば、止まらないネガティブな思考や、それに伴って起きてくる苦しい感情とか、そういう説明ができると思うのですけれど、それでは、起きてくる思考や感情というのはそもそも自分のものなのでしょうか。
たまにこういう実験をします。「今から一分間、自分の思考を止めてみて下さい」ということをお願いして、「はい、スタート」で、一分間待ってから皆さんに感想をお聞きするのです。例えば六十人くらい集まった人に「思考を止められた人」と聞くと、たまに一人とか手を挙げる方もいらっしゃいますけれど、ほとんど無理なのです。実は最初から無理なお願いをしているのです。できないですよ。
坐禅をしたら無心になるとか、無念無想になるとか、そういう言葉がありますね。そういう言葉を知って、それを期待して坐る訳ですが、いざ坐ってみると考えが止まらない、もう出て出て仕方がない。もっとスカッとした気持ちで坐れたらいいのに、って思う通りにならないですね。実は自分のその思考の活動、心の活動というものも、勝手に起きている現象なのです。例えば、坐禅をする時、外で雨が降ったり、風が吹いたり、鳥が鳴いたり、いろいろな音が聞こえてきますね。今静かに坐りたいのだから、止まって欲しいって思った瞬間にピタッと止まることはないですよね、基本的に。それは自分のものではないからですね。
実はそれと同様、私たちの思考とか脳の働きというものも、自分の都合でピタッと止められるものではない。苦しい、嫌だっていう思いが出て来た時も止められない。止めようがない。だから自殺までしなければならなくなってしまう人は、ある意味、それにやられてしまったというか、どうしようもないものに耐えられなかった。耐えられなかったっていうのはその人が弱いから、ということではないですよ。そのどうしようもなさに本当に直面をしてしまった、直面せざるを得ないほど、ある意味感性が鋭く、心が繊細であった。そういうところもあるのではないかと私は思うのです。もしそれくらい苦しむ人が、もう少し早く仏道と出会っていらっしゃったら、ということを考えることもあるのですが。私たちが心であると思っているその活動すら、自分のものではない。どうしようもないものなのです。心すら自分の都合、自分の手に負えるものではないとしたら、それでは自分とは一体何でしょうか。そうやって丁寧に見ていきます。
仏教では「無我」という言葉がありますね。仏教とかヨーガとかを学んでらっしゃる方はご存知の言葉だと思います。我は無いと書いて「無我」。釈尊は、当時のインドの思想であるアートマンという絶対的な自分の主体というものを否定する形で、「アナートマン」ですね。アートマンを否定するアナートマンという言葉を使って、ダルマを説かれました。アナートマンを漢訳では無我というふうに訳しておりますが、仏教学者の中村元先生は、「非我」、「我に非ず」というふうに訳した方が無我という訳よりも適切ではないかと仰っていたそうです。我に非ず。今、自分とは何かということを学ぶ時に、名前とか性格とか身体とか、その心の動きとか、そういうものに一つ一つ洞察の目を向けていきましたが、何一つ「これが私です」と言い切れるものはなかった。我に非ず、それがアナートマンということですね。何かを指して「これが私です」といって差し出せるもの、指差せるものがないということです。
「無我」、私が無い、我が無いという言葉だけ一人歩きしてしまうと、それはある意味、虚無思想に陥ってしまうという弊害があります。何にもないなら何をしたっていいじゃないか、とか。あるいは、何にもないのなら何をしたって意味がないんじゃないか、とか。私がいない、そんな寂しいことはないじゃないか、というふうに。だから西洋では最初、仏教はニヒリズムだというふうに受け取られたという経緯があります。無我という言葉だけが一人歩きしたならば、そういうことも起きてきます。中村元先生もおそらくそういう観点から、「我に非ず」、非我という言葉を用いた方がより適切ではないか、ということを仰ったんだと思います。
お釈迦様は別のところでこういう言葉を使われています。「自灯明 法灯明」。これは涅槃経という経典に載っている言葉ですね。釈尊が最期ニルバーナに入られる時、入滅される時に、弟子たちに言い残した言葉と言われています。「自灯明」、自らを灯火として、歩いていきなさい、というような意味合いですね。そして「法灯明」、ダルマを灯火として、生きていきなさい、歩んでいきなさい。これは、サンスクリット語からの直訳で言うと、自らを島としてそれを拠り所にせよ。だから結局は、拠り所とすべき自己があるということです。「無我である自己」というものがある。言い換えるならば、ダルマそのものである自己を拠り所にしていきなさい、という言葉になります。ですから、「仏道をならうということは自己をならう」その自己とは何か。その自己を言い換えるならば、真理そのものである自分、本当の自分、本当の心のことです。さっき言った自分の手に負えない思考とか止めようのない心の動きではない、それを越えている本質的な意識。それを禅では「本来面目(ほんらいのめんもく)」など、いろんな言葉で表現します。ただ一文字で「無」ということもありますね。その「無」というのは、有ると無いの二元対立の無ではない。有ると無いを越えている、絶対無。このあとレジュメでも紹介しますが、道元禅師が「仏心宗」と言われたように、「仏心」、仏の心が、我々の本質である。一切の条件とかそういうものに振り回されない、本質的な私たちの心がある。それに目覚めるのが仏道であり、禅であるということです。
ホワイトボードに書いた言葉があります。「不立文字」(ふりゅうもんじ)「教外別伝」(きょうげべつでん)「直指人心」(じきしにんしん)「見性成仏」(けんしょうじょうぶつ)。これは達磨の四聖句と言われています。禅のスローガンといいますか、禅が昔から標榜してきた「禅とは何か」を端的に表している言葉です。「不立文字」、言葉や文字には現わせない。「教外別伝」、教というのは経典、言葉、文字で伝わっている教えのことです。経典の教えとは別に伝わっている本質がある。「直指人心」、直に人の心を指して、本質そのものである心を直接つかみ取って、「見性成仏」、性を見て仏と成る。性というのは、性質の性ですけれども、われわれの本性、つまり仏性のことです。そして仏と成る。本性を見ることを、禅では見性と言います。この見性という言葉も、「見る」という言葉があると、見るものと見られるものがあるような二元的な感覚というか、そういうものを想像させてしまうのが、言葉の難しいところですが。本性そのものとして見ているというか、本性そのものが現れる、仏性そのものが顕現する、というような表現の方が近いですね。それを禅では「見性」という言葉で表現します。見性して仏と成る。「成仏」は別の言葉で言えば、「成道」、「道と成る」ともいいます。
道とか、仏とか、ダルマ、法、仏法の法とか、いろんな言葉がありますけれども、同じものだと思って下さい。どれも本来の皆さんの姿を表す言葉です。それそのものと出会う、それそのものとして現れる。「法身」という言い方もします。法の身体、ダルマの身体、ダルマ・カーヤそのものとしてこの世界に現れ出ることです。伝統的な仏教の言葉で言うならば、解脱という言葉がありますね。涅槃、ニルバーナというものと同じものだと思って下さい。道元禅師は「身心脱落」という言葉を使っていらっしゃいます。身心脱落、身と心が脱落をする。落ちるんです。自分の身体だと思っていたもの、心だと思っていたものが落ちる。じゃあ残るのは一体何でしょうか。自分だと思っていたものが全て落ちてしまう。禅では落ちるという言葉を使います。身心脱落という言葉を、私の師匠はこう説明されていました。「蛹が蝶になるように、それまで自分だと思っていた身心を脱ぎ去って、現れ出るようなもの」、そのように全てを脱ぎ捨てる、脱ぎ去るのが身心脱落であるということを、私の師匠は仰っていました。
禅の法脈はお釈迦様から弟子から弟子へと代々ダルマを伝えてきた、と表面的には言っておりますけれども、実は何も伝えてないのです。伝えるという言葉は、誰かから誰かに手渡すという表現です。伝法とはつまり、大切なものを代々伝えていく、誰かから誰かに何かを伝えていく、ということだと思うんですが、禅では「本当は何も伝えていない」、不伝、不伝の伝という言い方をするんです。不伝の伝、不は「あらず」ですね。不伝の伝、何も伝えてないんです。何も伝えずして伝わって来ている、それがダルマ。つまり、一己(いっこ)一己の人間が身心脱落をしてきた、ということです。最初、釈尊が法を伝えられたのは自分の修行仲間であったと言われていますが、その修行仲間に何かを渡すような形で伝わったという訳ではないですね。こういうふうにしたら私にはこういうことが起こった、というようなやり方は教えたかもしれません。教えられた行法は呼吸を観る方法だと言われています。アーナーパーナ・サティといって経典にも伝わっています。そういう行法を具体的に伝えられたということですが、本当にダルマが伝わったというのは、それを教えられた人がそれを実践したことで解脱されたということですね。身心脱落された訳です。それではじめて、真実が伝わった、と言うのです。だから、禅の法脈というのは、自らが解脱をして、師匠を証明することで続いてきたということです。普通の習い事とかなら、ある一定の基準に達したら、先生が「あなたは合格です」とか「黒帯です」とか言って、お免状を渡したりする訳なんですけれども、禅や仏道は実はちょっと違うんです。弟子が、お釈迦様、師匠に対して、「あなたは本当のことを言っていました」、「嘘つきではありませんでした」と、「あなたの言う通りにやったら、本当にあなたと同じことが起きました」と言って、弟子が師匠を認める。弟子が師匠に合格を出すのです。そうやってダルマは伝わってきました。
しかしだからこそ、本当のことが伝わってきたのかもしれません。もし伝言ゲームのように伝えるのだとしたら、例えば文字に起こした経典もそうですけれど、少しずつ変わっていったりしますね。形は少しずつ変わっていく。日本の茶道もそうです。千利休の茶道もいろんな流派に分かれて、型や表現、ルールなどは皆変わっていく。だから不立文字、教外別伝というのは、そこで伝えているものではないということです。今言ったように、一人一人が実践をすることによって、お釈迦様の悟りを証明してきた。それが禅宗と言われるものです。
私たちの心だと思っているものとは別に、本質的な意識があるということを申し上げました。私は一つの分かりやすい例として、建物を例え話にして伝えることがあります。二階建ての建物です。私たちの本質的な意識、不生不滅の仏心というものは一階だと思って下さい。二階は分別を持つ、人としての心です。それが現れるのがいわゆる、物心ついたということですね。一階に名前を一応付けておきます。生まれた時の赤ん坊を見ると、生命力に満ち溢れていて、ノーガードというか自我を全く感じないから、見ている方が癒やされる、そういう存在ですね。ただ「いのち」そのものとしてそこに現れているみたいなね。だから、とりあえず「いのち」の階という名前にします。存在としてもそうですし、意識としても、赤ちゃんって仏です。人は「いのち丸出しの存在」仏そのものとして生まれくる。そして物心ついて二階ができてくる。ご両親から名前を付けられて、次第に言葉も覚えて、いろんな考え方、観念をインストールして、「私はこういう人間です」という固まったセルフイメージや世界観ができ上がってくる訳ですね。でもそれは人間として、生きていく上でどうしても通らなければならない過程だと思います。人間はそういう生きものです。だから、生きていく為に作られるそういう意識のあり方というのが、「せいかつ」の階です。このように人間の意識は二階建て、ということにしておきます。別にこれでいいのですけれどね。大人になっても赤ん坊のままでは困ります。二階も必要です。
しかし何が困るかというと、人間は一階のことを完全に忘れてしまう。するとどうなるか。二階しかないと思い込んでいたらどうですか。一階の存在を完全に忘れていたら、全てと切り離されて二階から出られない。一階というのは地面と繋がっています。だから他の人、隣に誰かいたら繋がっている訳です。他の全ての存在と一つであって、全てと一つである意識のあり方が土台としてあって、そして人間でもあるのが本来なのですが、土台を忘れてしまったら、全てのものと切り離されて、宙に浮いている状態になる訳です。自分が世界から分離している、切り離された存在だ、という意識の在り様になっていくのです。それは自分の本性を見失っているということになります。その自分の本性を見失っている状態を、仏教では無明といいます。自己の真実が明らかで無い、無明ということです。
しかし、忘れてはいますが、一階がなくなった訳ではない。それは決してなくなるものではない。もともとずっとあったものです。むしろ、二階の方が後に作られたもので、絶えず変化し続けるものです。禅というのは、この一階を思い出す。これ自体であったということに気付いていく、そういう道のりなのです。しかし道のりと言いましたけど、実は距離はないのです。失われているものではないし、これから何かをして、手に入れなければいけないものでもない。今ここでお話しを聞いておられる皆さんの意識は、既にずっとそれそのものなのです。そのもの自体なのですね。
十牛図という、禅の修行のプロセスみたいなものを十段階の絵に描いたものがあります。牛を探しに行くのです。要するに、本当の自分を探しに行く旅です。牛を徐々に捕まえていって、やがて牛を乗りこなしていく、というような段階が描かれています。下の一階部分が本来の自己、牛です。それを探している自分というのが、実は上の二階ですね。自分が自分を探しているのです。牛とそれを探している人が段々と一体化していくというのは、段々これを思い出していくというか、意識の真の主体はこっちであった、ということが腑に落ちていく段階という感じですね。最後にこれ(一階)とこれ(二階)が同時になくなる。つまり、この建物のモデルも十牛図も、修行者を導くために、あえて仮に「本来の」とか「本来ではない」に分けている訳です。
仏教では「色即是空」という言葉があります。とりあえず上の二階を「色」にしておきましょう。下の一階が「空」、真実の世界としておきましょう。真実がある、本来の自己があると示さなければ探求、学びが始まりませんので、最初は分けますが、最終的にはこの二つは分かれていない。この境目すら本当はないのです。二階として扱っていた、人の観念として作られた世界というものも、「いのち」の表現の延長である。だから、色即是空の即というのはイコール、つまり、色はそのまま空であるということになります。
中国の禅僧で石頭希遷(せきとうきせん)という方がいます。石頭希遷の残された経典で、「参同契(さんどうかい)」というタイトルの経典があります。「参同契」の「参」というのは「色」のことです。「同」というのは「空」のことです。これらが「契り」を結んでいる、一体になっている、円融している、という意味です。だから最終的には、何が真理であるとか何が迷いであるとか、迷いと悟りという二元対立の概念、それすらも本当は脱落をしなければいけないのです。それは、本当に分かった時に何が分かるのかといったら、最初から差別のままに解脱していた、ということですね。人も、動物も、山も、川も、建物も、何もかもが最初からそのままで仏だった、全てがそのままで解決をしていたということです。
[休憩をはさむ]
今日お渡ししたレジュメをご覧いただくと、「不立文字の禅僧達が残した言葉」というタイトルになっています。「不立文字」というのは、文字を立てず、ですから、言葉には現せないということです。禅とはそういうものだと主張してきたのが、禅僧達です。世界中のあらゆる経典を集めたものを大蔵経といいますが、それを宗派別に分類したら、実は禅の語録が一番多いそうです。禅が一番言葉を使っているとも言えます。そんな矛盾の中で、禅は伝わってきたとも言えますが、いくつかカテゴリーに分けて、有名な禅のお坊さんたちの残された言葉を集めてきました。今回の講座では一つの語録に注目して解説するのではなく、長い禅の歴史の中で、いろんな時代の禅僧達の言葉を取り上げて、その中から一貫しているものが見えてくるのではないか、という角度でみていきたいと思います。
まず、禅とは何か。「禅とは仏心なり、律とは外相なり、教は言説なり、称名は方便なり。これらの三昧みな仏心より出たり。故に此宗を根本とするなり。」これは聖一国師という方の書かれたものです。東福寺を開かれた最初のお坊さんが聖一国師という方です。最初から「禅とは仏心なり」、こう出てくる訳ですね。仏心というのは、今言った一階の意識、根源意識のことです。道元禅師が言った仏心宗の仏心です。禅は、仏心の別の名前であった、ということです。だから坐禅という行法を指すのではなく、特定の宗派でもなく、本来の自己、私たちの本来の意識を禅と名付ける、というようなニュアンスです。
禅という言葉自体は、インドのディヤーナという言葉が中国で禅那になって、略して禅になった、とか、インドの方言ではディヤーナを「ジャン」と発音していたから禅になったとか、いろんな説があります。サマーディという言葉もありますね。ヨーガではディヤーナとサマーディは細かく使い分けたりするのかもしれないですが、禅では同じような意味合いで使うことが多いかもしれないですね。三昧はサマーディの漢訳になります。禅と同じく、仏心という意味で「我々の本質」を指す意味でも使いますが、高い意識の集中状態として使うこともあります。深い瞑想に入っている状態を三昧と言います。仏教を学ぶ上で、一つの言葉がいろんな意味合いで使われているので、その文脈を見ないと読めないところもあるのですね。
そして、「律とは外相なり」、律というのは戒律とか、決まりだと思って下さい。それは外観、外枠の姿、仮のものであると。お坊さんがこういう格好をしたりするのも外観ですね。「教は言説なり」、これはそのままですね。「称名は方便なり」、お経を詠んだりすることです。「これらの三昧みな仏心より出たり」、仏教の、戒律や教え、お経を詠むことは、全部サマーディに入る為の入り口であり、仏心の現れです。「三昧みな仏心より出たり。故に此宗を根本とするなり」、宗というのは、大本という意味なのはご存知でしょうか。茶道とか華道で宗家(そうけ)と言いますね。流派の本流を伝えておられるお家柄を宗家といいますが、大本のことです。
私たちの大本とは何か。宗教という言葉は、日本ではどちらかというと信仰的な意味合いで使われることが多いですが、実は、明治時代以降そういう意味合いになっていったそうです。西周(にしあまね)さんという方が、Religionという英語を日本語で訳す時に「宗教」という言葉を使われた。だから信仰的な意味合いになっていったという背景があるそうですが、「宗教」という言葉は、元々禅宗が使っていた言葉だそうです。ですので、いろんな宗派がある中で、仏教の大本は禅だという意味合いで「宗教」という言葉を使っていました。
次は「衆生本来仏なり。水と氷のごとくにて。水を離れて氷なく。衆生の他に仏なし。」この白隠禅師坐禅和讃の一節はご存知の方も多いかもしれません。「衆生」とは生きとし生けるもの、狭義で、私たち人間のことでいいと思います。我々は本来仏である。お釈迦様だけではありません。禅の祖師方だけでもありません。昔の偉いお坊さんたちだけでもありません。存在している、人間としてここに存在している、現れているということは、それは仏であるということを証明しているということです。人間であるということは、さっき言ったように建物の二階があるということです。二階があるということは、一階があるということと同じであるということです。「水と氷のごとくにて。水を離れて氷なく。衆生の他に仏なし。」これは水と氷で例えていますけれども、本質的な自分の姿を見失った人のあり方、意識のあり方というのは、つまりカチンコチンに自我が固まっている状態。他人と分離している、他の存在と溶け合うことができない分離している状態を、氷に例えています。だから、氷が溶ければ元にあった水と一つに溶け合うことができる。仏という言葉は、解(ほど)けるという言葉から来ているといいます。自分という塊が解け去れば、そこには何も塊がなくなる。それを仏だと。
もう少しみていきましょう。「禅とは仏心なり。」禅とは仏心のこと。さらに言い換えれば仏性、法、ダルマ、無とか、いろんな言葉を使うということを言いました。まず、最初のところ、「問曰、本有の仏性とはいかなるものぞ。」本来備え持っている仏性、本質的な自分のあり方というのはどういうものですか。「答曰く、一切衆生に自性あり、此性は素より不生不滅なり、常住不変なり。故に本有の自性と名く。三世の諸仏も一切衆生も此性を本地法身とす」。「一切衆生に自性あり」、一切の生きとし生けるものには本質的な性質があります。それ自ら現れている性質があります。「此性は素より不生不滅なり」、それは生ずるものでもなければ、滅するものでもない。生まれるものでもなければ、なくなるものでもない。「常住不変なり」、永遠である。「故に本有の自性と名く」、だからそれを我々の本質的な性質であると名付けている。「三世の諸仏も」、三世というのは過去・現在・未来。大昔、始まりのない始まりから未来永劫にいたる仏たち、真理に目覚められた存在たちがいる。そして全ての生きとし生けるもの、目覚めた人でなくても、いわゆる凡夫、迷える人たちも、「此性を」、仏性そのものを「本地法身とす」、真実の姿とする。法という言葉はダルマです。法という言葉も文脈によっていろんな訳し方ができます。単純に「教え」と訳す、あるいは「真理」と訳すこともあります。あるいは「存在」「事象」「現象」と訳すこともあります。この三つのパターンで大体いけますが、ここは「真実」ですね。「本地法身」は「真実」としての姿だと思って下さい。私たちの本性、一階のことです。
仏教を学んでこられた方であれば、お釈迦様が「無我」と仰ったとご存知だと思います。アートマンを否定されたのであれば、この常住不変、永遠を感じさせる言葉は矛盾するじゃないか、と疑問を持たれる方もいらっしゃると思います。アートマンと似たような言葉で、真我という言葉もありますね。真我のことをある宗教では神と呼ぶのかもしれません。それに対して仏教は無我ではないかと。さっきも言いましたように釈尊は、「自灯明」「法灯明」、灯火とするべき本来の自己というものを別に否定された訳ではありません。ただ、その本質的な私たちの意識というのは対象として指差せるものではありません。見ることもできないし、掴むこともできないし、匂いを嗅ぐこともできない。何故か。何かを見るということは、それと見性という言葉も繋がりますが、何かを見る、「これが私の本性だ」と見ることができるのであれば、それとその本性とが分離していなければ、それを見ることができないです。見るということは距離があるから、見ることができる訳です。
例えば「これが本性です」と言って、見ることができるものを見つけたとします。それでは、それを見つけた側は何なのか。むしろそれを見ている方が本性ですよね。ややこしい話になってきましたが、身近な例えにするなら、自分自身の目を見ることができますか?できないですね。自分の目は自分の目で見ることができない。距離がないからです。そのものだからです。ですから本質的な意識が現れたならば、その性を見ている者はいなくなる。その本性そのものを見ているものは一切落ちる。「自我が落ちる」という言い方をすることも多いですね。「人」がいない、だから「無我」というのはそういうニュアンスの表現です。自分を見るものがいなくなる。自分の意識を眺めている意識がなくなる。これは後で、坐禅の実践をした後に、詳しく話をします。
次にいきましょう。「大いなるかな心や。天の高きは極む可からず、しかも心は天の上に出づ」、敢えて心(しん)と読んでいます。「地の高きは測る可からず、しかも心は地の下に出づ。」では、私たちの仏心というのはどういうものか。法身とは一体どういうものか。これは栄西禅師、建仁寺のご開山ですね。「大いなるかな心や」、それは限りのない大きさのものである。この大きいというのは、限界がないという意味だと思って下さい。だから比べようがない。例えばその「大」の字は、端をずっと伸ばしていくといくらでも拡大できるのですが、無限に拡大しても終わりがないくらい大きい。それは、天の高さ、空の高というのは測り知れないけれど、それよりも大きいものである。地面の深さというものも測り知れないけれど、それよりも大きいものである。
もう一つだけ見ておきましょう。道元禅師のお言葉です。「あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。」心とは明らかである。それは山であり、河であり、この大地であり、太陽であり、月であり、夜空に輝く星々である。これらの過去の禅僧達が残された言葉に現される心とは、私たちが普段考えている心と同じものでしょうか。それとも違うものでしょうか。山河は「せんが」、日月は「じつげつ」と読む習いになっております。
我々の本性である意識、心というのは際限のないものである。とてつもなく大きいものである。普段、大きさを言う時は、これは大きいとかこれは小さいとか、その形の枠があって何かと比較して「何々より大きい」と言いますね。それは全部何かと比較した上での大きさです。でも、ここで言われている「大いなるかな心や」という心は、太陽や月や星々すらも飲み込んでいるような大きさです。その心の大きさというのは、何かとの比較の上の大きさではないのです。それは同時に大きさがない、ゼロであるということです。だから禅では「無心」という言葉を使うこともあります。心だと思っているものが全て落ちたところ、心という対象が一切ない、ということです。だから無我。無いのが一番大きい。ゼロが一番大きい。いわゆる「真我」という言葉と「無我」という言葉は、本当は同じことを言っています。光明、光に例えて表現する人もいるかもしれません。光明というのは禅でも使いますね。光というのは形がないですからね。
続きを読んでいきます。黄檗希運禅師『伝心法要』から。「諸仏と一切衆生とは唯だ是れ一心にして、更に別法なし。」大体同じようなことが言われていますが、ここでは仏心の代わりに一心という言葉が出てきています。他のものは存在しない「更に別法なし」、この意識しかない。「此の心は無始より巳来(このかた)」、「このかた」とは以来です。「曾て生ぜず、曾て滅せず、青ならず黄ならず、形なく相なく、有無に属せず、新旧を計せず、長に非ず短に非ず、大に非ず小に非ず、一切の限量名言、蹤跡対待(しょうせきたいだい)を超過して、当体便ち是、念を動ずれば即ち乖く。猶虚空の辺際あることなく、測度すべからざるが如し。唯だ此の一心、即ち是れ仏にして、仏と衆生とは更に別異なし。」これくらい長くなると、難しく感じられるかもしれませんが、今まで書いてあることと基本的には全く同じです。その一心、仏心というものは、生ぜず滅せず、青黄といった色も付いてない。形もなく姿もない。そして有無に属せず、有るでもなく無いでもない。仏教がアートマンを実体視しないというのは、何かを指してアートマンがあると言ったなら、そのアートマンを見ているものが未解決のまま残るからです。それそのものが本当に現れたならば、「これです」と言えない。だから有るも無い。有るとか無いとかを越えている。「新旧を計せず」、新しいものでも古いものでもない。長くもなければ短くもないし、大きくもなければ小さくもない。「一切の限量名言、蹤跡対待を超過して」、難しい言葉が続いていますが、何の限定も受けない、また、何の足跡も残らない。「当体便ち是、念を動ずれば即ち乖く」、これだとかあれとか、みたいなことは全部違うと。あれともこれともそれとも指を指すことができない「それ」。だから探すことで見つかるものではない。かくれんぼに例える時があります。禅は本来の自己を探す「自己探求の旅」です。自分とは何か、一生懸命探す訳ですけれども、探し出されるものは全部自分ではないものばかり。友だちとかくれんぼして友だちを探して見つけた。でもそれは探している側の、自分ではないものばかりですね。だから、「念を動ずれば即ち乖く」、あれだこれだといろんな考えを巡らして、その延長上に現れてくるもの、獲得するものではないということですね。「猶虚空の辺際あることなく」、虚空というのは、まさに限定のない、一切何もない、無、この宇宙そのものを現すこともあります。禅では本質的な自己のこと、仏心、仏性のことを虚空と表現をすることがあります。虚空というのは形がない訳ですから、限定されていないのです。無限に大きい訳です。だから、「大いなるかな心や」という言葉で表される。「測度すべからざるが如し。唯だ此の一心、即ち是れ仏にして、仏と衆生とは更に別異なし」、そうやって測ることができないものであって、「唯だ此の一心」、それだけを仏と言い、過去の覚者とか聖者とか、誰が悟ったとか悟ってないとか、そういうものを越えているんです。何にも変わらないものです。これは黄檗希運のお言葉でした。
禅の行法として坐禅というものがあります。聖一国師『仮名法語』から。「夫(それ)坐禅の宗門と云ふは、大解脱の道なり。諸法は皆此門より流出し、万行も此道より通達し、智慧神通の妙用も此中より生じ、人天の性命も此中より開けたり。」その坐禅というものが、仏陀の悟りに直結している道である。有形無形一切の存在はそこから現れている。諸法、ここの法は「真理」や「教え」というよりは「存在」という意味で受け取るのが読み易いでしょうか。諸法、諸々の存在は、「皆此門」、宗門というのは大本・根源の門ですから、禅のことです。そこから現れ出でている。「万行」、あらゆる行法、いろんな宗教の行法というものも、そこから出てきていると。「智慧神通の妙用」、これもそこから現れてきている。「人天の性命」、天道界の住人、人間界の住人、いろんな生物の現れのことですが、それもそこから現れている。だから、人間の中にその本質的な意識があるのではない。本質的な意識の中に、自分だと思っていたその肉体や心や、その他一切の人々、存在、事象があるということです。だから、その心というものは、この肉体の中をどれだけ探しても見つからないですね。
次は達磨大師のお言葉です。「若し妄を捨てて真に帰し、壁観に凝住して、自他凡聖等一に、堅住して移らず、更に文教に随わざれば、此れに即ち理と冥符して、分別有ること無く、寂然として無為なるを、此れ理入と名づく。」漢文の読み下しが分からなくてもいいですよ。全部平たく訳します。さっきの一階と二階のことを思い出して下さい。「妄を捨てて真に帰し」、だから、自分を騙しているもの、眩ましているものを捨てて、「真に帰し」、本来の我に帰りなさい。二階を捨てて一階に戻りましょう、ということです。「壁観に凝住して」、これは壁という字に観るって書いて壁観、これはね、そのまま坐禅のことだと言っていいです。壁に向かって坐禅をする「面壁」というものがありますね。現在は曹洞宗では面壁で、臨済宗は対面で坐ることが多いですが、実は臨済宗も江戸時代中頃ぐらいまでは面壁をしていました。この壁観というのは、その面壁のことではありません。壁そのものが観ている。この壁というのは、本来の自己のことを言っています。だから壁というのは一つの例えです。壁そのものは、うんともすんとも言わないじゃないですか。何の計らいもなく、ただそこにありますね。この壁は何かをしようともしないですよ。だから、壁のようにそれそのものとして坐っていなさい、本性そのものとして坐ってなさい、と。本性というのは計らいも何もないのですね。何かをしようとしていない。「無為自然(むいじねん)」という言葉があります。本性は無為そのものです。何にもしていないのです。だから、本性に安住して下さい。真我そのものに安らいで坐っていて下さい。真我そのものとして観照していて下さい、という意味です。
難しい言葉は流していきましょう。「自他凡聖等一に、堅住して」、これも「自他凡聖」というのは、私とか他人とか、悟った人とか悟ってない人とか、そういうものは一切越えて、「等一」、本質的には同じものであって、「堅住する」、堅く住する。だから、そこにただひたすら安住し続ける。一階そのものに安住し続ける。「いのち」そのものとして、意識そのものとして、ただそこにあり続ける、ということです。「文教に随わざれば」、経典とか言葉とかそういうものに振り回されないで、「理と冥符して」、理というのはダルマ、静かに一つになることを冥府といいますが、真理である本来の自己と一つになって、という意味ですね。「分別有ること無く、寂然として無為なるを」、「寂然として無為なるを」は、壁に例えた本性そのものの性質だと思って下さい。「寂然として無為でいようとする」とは、結局、思考が収まらないとか、騒がしいとかいうことになってくると思います。それは人間の側から言った場合ですね。だからそれを越えている。本性は最初から寂然であり、無為そのものです。壁ですから何もしていないですね。それを「理入と名づく。」これは、世界に現存する禅籍で最古のものです。達磨大師の言葉ですから当たり前なのですが、実はこれが出てきたのはおよそ百年ぐらい前で、結構最近のことです。達磨の四聖句のように達磨大師に仮託される言葉はあったのですが、達磨大師ご自身の言葉自体というのは、最近研究され出したばかりなのです。面白いですよね、最初の人の言葉がわからなかったというのは。「理入」というのは、原理的な至り方という意味です。「二入四行論」というタイトルにも繋がります。「理入」、根本的な修行の原理みたいなものです。原理原則というか、それによって至る方法。もう一つが「行入」、行いによって入る。いわゆる実践編みたいなものです。理入の原理をどのようにして日常で実践していくかということですが、それを四つに分けて四行。だから「二入四行論」と言います。行入というのは、日常生活と直結していて、日常を瞑想として、坐禅として生活をしていく、ということが書かれております。ヨーガでいうところの「カルマ・ヨーガ」みたいなものにすごく近いのではないかなと思うのですね。
次に行きます。「外、諸縁を息め、内、心喘ぐこと無く。心、墻壁(しょうへき)の如くして、以て道に入るべし。」これは圭峰宗密という方が、達磨大師の言葉として書き残されたものです。圭峰宗密という方は達磨大師在世の時代の方ではありませんから、おそらく、弟子の中で受け継がれてきた言葉を書き現されたものだと思います。ここにも「心、墻壁の如くして」というふうに例えが出ておりますから、おそらく禅の初期の頃は、そういう例えをよく使っていたのではないかと思います。
次に「心、牆壁あり、いまだ泥水せず、いまだ造作せず。」これは道元禅師の言葉ですが、ここにも「心、牆壁あり」と書いてあります。心を壁に例えているんです。それは未だかつて泥水にも汚れていないし、未だかつて造作、作為すらしたこともないものである。何にもしていない、ただそこにありて、あり続けているものとして表現してあります。壁以外にもいろんな例え話をします。鏡に例えることもあります。鏡というものは何の造作もしておりませんけれども、こっちを写せばこっちが写り、あっちを写せばあっちが写る。そして、写っていたものを動かせば、何にも痕を残しませんね。我々の本質的な意識も同様であって、何一つものを掴まない。最初から何にも執着できない、何も掴まない意識がある。何も掴まないながら、写すものは何でもかんでも全てあるがままに受け入れている。一切を受け入れている。
でもよく考えて下さい。今、こうやって私の話を皆さん、聴いて下さっておりますけれども、この話以外の音も、ちゃんと耳は拾っている訳ですね。外で車が走れば、車の音も聞こえる。空調の音がすれば、空調の音も聞こえる。実は、私たちの意識、五感の世界は、六根と仏教では言いますが、そういうものもの全てを受け入れっ放しです。目もそうですね。今、意識をフォーカスして、目の前で口をパクパクさせているお坊さんに意識を向ければ、「そこに人がいる」という認識作用が生まれます。「人がしゃべっている」、「お坊さんがしゃべっている」、「この人は五十部泰䂖という名前らしい」という認識、あるいは物語が生まれてきますけれども、それが生まれる以前、すなわち「あ、ここに人がいる」と認識する以前に、目は一切のものをただ受け入れていますね。実はこの人間の六根の作用、六根というのは、眼・耳・鼻・舌・身・意、般若心経で出てくるあれです。五感プラス意識、それが本来の自己に至るための一つの入り口になります。だからそれを使って修行をしていく、というように考えて下さい。目でものを見ている、耳で音を聞いているという当たり前の人間の活動、作用というものが、実は悟りに直結しているのですね。その本質的なものを、壁、鏡、虚空、いろんなものに例える。鏡が鏡自体を覗き込むことはないですね。外のものを写しっ放しです。だからそれも一つの例えになるのです。唯識では「大円鏡智」、大きな円かなる鏡の智慧、大円鏡智。上手い例えだと思います。
次は道元禅師の『普勧坐禅儀』からです。「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。此れすなわち坐禅の要術なり。」思い量らざる底を思い量りなさい。思い量らざる底をどのように思い量るのか。思い量るに非ず。意味が分かりにくいですね。分からなくて普通です。これも壁だと思って下さい。壁があれこれ考えたりしてないです。何の作為もなくただそこにあり続けていなさい。だから、思考というのは外で起きているものだと思って欲しい、ということです。思考は自分のものではないですね。壁に向かっていろいろ話しかけたり「おーい」と声をかけても壁は一切返事もしませんし、相槌も打ちませんね。だから、思考が頭でお話しをしていても、放ったらかしにして坐って下さい。それが坐禅の要術です。
次は『六祖檀経』から「外、一切善悪の境界に於いて、心念の起らざるを、名づけて坐と為す。内、自性を見て動ぜざるを、名づけて禅と為す。」外と内というふうに、一応、仮に分けていますけれども、本当は内も外もないのです。言い換えれば全部外ですし、逆から言えば全部内ですが、一応、修行者に対しての言葉として受け取って下さい。外に対して、外のものごと、現象に対しては、一切「これがいい」「これが悪い」ということを自分で決めるな、それに対してどうこう思うな、ということです。自分の坐禅に対してもそうです、坐禅の状態に対して、いい坐禅も悪い坐禅もないと思って下さい。その自分の坐禅というものを他人事のように、ただそこに置いておけばいい。放ったらかしにしておけばいい、ということですね。それを坐といいます。だから、意識そのものが坐っているということです。坐というのは形のことじゃない、ということが言いたい訳ですね。そして、「内、自性を見て動ぜざるを、名づけて禅と為す」、これは、こう言うと、自性と動ずる心が分離しているような表現になりますけれども、その性そのものになりきっているから、動ずるものがない、というのが本当のところでしょうね。本性そのものとして現れているから、それを禅と呼ぶのです。だから仏心そのもののことを禅といいます。坐禅というのは、坐ってこういう格好をして、こういうふうな感じで呼吸をこうして、というのが坐禅ではなくて、仏心そのものはずっとそこに坐り続けている、禅はずっとそこに坐っているということです。禅そのものとして、本性そのものとして、そこに坐っているのが坐禅なのですね。だから、行法でありながら、実は結果そのものである、ということです。ここには書いていませんが、道元禅師の「坐禅とは坐禅なり」という言葉があります。坐禅というのは、方法でもない、テクニックでもない、行法でもない。ダルマそのものの現れ、結果そのものである、ということです。だから、今日初めて坐禅をする方も、今まで十年二十年坐ってこられた方も、坐禅がそのまま法、真理の現れなのですね。もっと言えば、禅はずっと坐り続けています、表面的には坐禅をしていなくても。
それでは最後に、ダルマ、法を体現した禅僧達の言葉を見ていきましょう。真理に至った人たちの言葉です。今までのところは、仏教の基本、禅とは何かということ、そして坐禅はどうするのかということが書いてありましたが、それではダルマを体現した人というのは、どんなあり方をするのか、ということを見ていきましょう。
「日々是好日」、雲門文偃(うんもんぶんえん)の言葉です。茶道されている方はよくご存知ですね。床の間の掛け軸に書いてあります。有名な言葉ですね。「全て毎日よき日である」と。この「よき日である」という言葉のすごみというのを、感じていただきたいのです。何でもいいよねって、やっぱり思いたいですね。人生いいも悪いもないと思いたいのですけれど、いつも本心で思えているかといえば、非常に難しいと思うのです。全てが良いのだ、何があっても良いのだということは、別に仏教のお坊さんだけじゃなく、皆、仰っているところだと思います。でも、そういうことを考え方として学んで、それを自分の生活に取り入れて、そんなあり方をしようと思っても、なかなかそうはいかなかったり、そう思えていても、常にそれを自分で自分に言い聞かせていたりしますね。何があっても良いのだ、よしっ、というように。それは要するに、何があってもいいということを確認し続けている、不自由さがまだ残っている、ということです。本当に良いのだったら、良いということももう確認しなくて良いのではないかと。禅では「好事も無きに如かず」、よいこともなければもっといい、という意味です。空気があることを普段意識している人もいませんし、今日家に帰ったらご飯を食べることを常に意識している人もいません。朝、太陽が昇ることを常に考えていることもありません。当たり前だからです。だから、最後は、法、ダルマ、真理というものからも自由にならなければいけない。禅、坐禅というものからも自由にならなければいけない。そこまで至って、「日々是好日」と、本当に言い切れるのではなかろうかと思います。
「仏法は用功の処無し。祇(ただ)、是平等無事、屙屎送尿著衣喫飯(あしそうにょうじゃくえきっぱん)、困し来たれば即ち臥す。愚人は我を笑ふ、智は乃ちこれを知る。」ダルマと言ったって特別なものは何もない。ただあるがまま、そのままで無事でいること。「屙屎送尿著衣喫飯」、トイレに行ったり、衣を着たり、服を着たり、ご飯を食べたり、眠かったら横になる。当たり前のこと、それがダルマです。でも愚かな人は、この私を笑うであろう。本当に目の開いた人であれば、それが本当に実に尊いことであるということをわかっている、と。これは臨済義玄の言葉です。
同じく臨済の言葉として、「随所に主となれば、立処皆真なり」。あらゆるところに、主というのは絶対的な主体、本来の自己がそこに現れているならば、「立処皆真である」、全てが真実の場である。何もインドの山奥に行く必要もありません。ヒマラヤに行く必要もありません。中国の山奥に行く必要も、お寺に行く必要もありません。普段の自分の日常生活そのものが、本当の場所である。
「眼横鼻直なることを認得して人に瞞ぜられず。」眼は横に、鼻は縦に付いていました、と言うことが分かったと道元禅師は仰っています。修行して何が分かったのか。眼は横、鼻は縦。花は紅、柳は緑。ただ当たり前のことです。だけれども、「人に瞞ぜられず」というのは、誰にも騙されないです、ということですね。
「水鳥の行くも帰るも跡絶えて されども路をわすれざりけり」。鳥は空を飛び、後には何も跡を残しません。これはダルマを体現した意識状態の表現です。さっき鏡の例えをしました。こっちを写して、反対を写せば、元の映像は何も残らない。それと同じですね。何も跡を引かなくなるのです、法そのものになれば。それを水鳥という表現をしている。だけど道を忘れる訳ではない。使い物にならない訳ではない。ちゃんと人としての生活もする。だから、仏としての意識を体現しつつも、人間として生きていくことができる。人間であり仏である。色即是空、空即是色。お釈迦様も同じような言葉を仰ってたんですね
「君、見ずや、絶学無為の閑道人。妄想を除かず真を求めず。」これは、永嘉(ようか)大師という方の言葉です。「君、見ずや」君は見たのか。さあ見たか、そんな感じです。「絶学無為」、学びを絶えた、学びが絶えた、探求を終えた人。無為ですから、その無為そのものである禅、禅そのものである自己に帰り着いた人。「閑道人」、暇人ということです。閑(ひま)な道の人、閑(しず)かな道の人。大暇が明く、という表現もします。「妄想を除かず真を求めず」、坐禅をしていたら考えごとが気になって、これはよくないことだ、早く収めなければ、という計らいすら起こらない。それまで妄想だ、分別だと思っていたその活動自体も、実は真理の表現の一部であると。何も捨てるものもなかった。そして改めてそこから真実というものを探さなければいけない、ということすら起きない。そういう言葉でございます。
「主なくて見聞覚知する人を いきほとけとはこれをいふなり」。主体がない、まさに無我。人がいないままに、見たり聞いたり知ったりしている。私という中心がなくなるんです。どこにも中心が無い。でも、その無いというのは、有る無いの無いではない、ということはもうおわかりだと思います。それを仏という。
「生きながら死人となりてなりはてて 心のままにするわざぞよき」。禅で悟った人のことを「大死底(だいしてい)の人」ということもあります。自我意識を滅却しきっている状態の人のことを、「大死底の人」といいます。昔の禅の老師方の指導はこれでした。死に切ってこい、座布団の上で死んでこい、ただそれだけです。ただひたすら坐るだけ。しかし、今は時代が時代ですから、辛抱強く坐れる方も減ってまいりました。今の時代に合った方便も必要であろうと思います。「生きながら死人となりてなりはてて」、なんかちょっと怖い言葉ですね。
「あら楽や虚空を家と住みなして 須弥をまくらにひとり寝やせん」。「あら楽や」、今度はいいですね。ちょっと明るくなってきました。「虚空を家と住みなして」、虚空が我が家ということですね。本来の自己に帰り着くことを、帰家穏坐と言います。家に帰って穏やかに坐る、帰家穏坐。禅は自分が自分に帰る旅ですよといとうことを、私は言うことがあります。自分が自分に帰る。だからそれ以上家を探す必要がなくなるのです。ああ、やっと家に帰った。皆さんも旅行は楽しいと思うのですが、でも旅行から帰って来て、家に帰って一息入れた時、ほっとしますね。そういうことです。ほっと、「あら楽や虚空を家と住みなして」、もうこれ以上、家を探す必要がなくなった、という一休の言葉です。
はい。一気にいろんな禅の言葉のシャワーを浴びていただきました。でも今までのことは全部忘れて下さい。今から坐りましょう。「不立文字」です。真実は言葉ではありません。ここからが本番です。もう終盤ですけれど。坐布を持っておられる方はお尻の下に坐布を置いて、座布団の方は座布団二つ折りにして。平たいところで坐り慣れている人はなくてもいいし、折らなくてもいいかもしれないですが、折った方が坐り易いかもしれません。それで足を組みましょう。右足、左足、どちらの足でもいいですから、取りあえず上げ易そうな足を選んで、反対側の腿の上に、付け根において。深く組める人はしっかり上げて。組めない人は浅くてもいいです。反対側の足を交差させて、結跏趺坐を組んでいただいてもいい。両足を組むか、片足を組むか。どちらも厳しい感じだったら、あぐらでも構いません。正座でも構いません。足の組み方が決まったら腰を起こして、背筋を真っ直ぐ上に伸ばして、頭の天辺で天井を持ち上げるつもりで、首の後ろもすーっと伸ばす。上から吊られているような感じでもいいですよ。あるいは心地良く上に伸びをしているような感じ。で、ふっと力を抜いて。一度手はひざの上に置いて、身体を左右に揺さぶります。段々と動きを小さくしていって、収まりのいいところで止めて。鼻で一度息を吸って、心地いいところで止めて、口から吐き出す。もう一度、吸って、吐き出す。はい、もう一度。吸って、吐き出す。では口を閉じて、舌は上あごの前歯の付け根辺りに据えて、鼻で静かに呼吸をします。手を組みましょう。お腹の前で、大体おへその前、その下辺りで、右手を下、左手を上、親指を合わせて、法界定印という輪っかを作る。これを、組んでいる足の上か、自分の下っ腹辺りに引き寄せておいて下さい。ここじゃなきゃいけないっていう場所はありませんから、しっくりくる場所を探して。肩や肘や、手指に余計な力を入れない。目は半眼、一度目を閉じて、うっすらと目を開けましょう。斜め下をそっと見下ろすような感じ。目の前の人が見えていると思いますが、見るとなく見ておいて下さい。壁観の例え、壁です。何をするともない、ただの壁となって坐って下さい。そして呼吸をただ感じて、まずは呼吸に意識を向けていきましょう。坐禅の呼吸は呼吸法ではありません。ただ感じて。身体がしたいように、呼吸がしたいように、この坐禅の姿勢が行う結果として現れてくる呼吸。それに身を預けるように、呼吸に意識を向けて。いろんな考え、イメージ、感情が湧いてきたとしても、一切取り合わない。壁はそんなものを相手にしません。どれだけ頭に話しかけられても、壁はうんともすんとも言わない。しばらくそのまま坐っていきましょう。呼吸から意識が逸れたら、またその都度、呼吸に意識を戻して。自分の坐禅をジャッジメントしない。その肉体も、呼吸もこの自然の一部です。自然の活動の一部です。私のものではない。
〈数分間坐る〉
はい。それまでにしましょう。どうぞお楽になさってください。
今日は二時間半ぐらいに渡って、長々とお話を聞いて下さいましたが、この一回の坐禅に勝るものはありません。この坐禅自体が導いてくれるということがあるのですね。今日お伝えした言葉というのは、その実践をしてこられた過去の先輩方がお話しされた言葉ですから、坐禅の実践をしていけば彼らが残した言葉の意味というものは、自ずと分かってまいります。要するに、過去の祖師方を、自分自身が坐禅を行じることによって証明していっていただきたいですね。ここに書いてあることは他人事ではありません。皆さんご自身のことが書かれてあるのです。誰一人、例外なく。どうぞ、ヨーガをされる方も、坐禅をされる方も、何かの参考になる機会がやって来るかと思いますので、頭のどこかに今日のお話を置いておいていただいたらと思います。
それでは最後に、ご質問があればお受けしたいと思います。さっき、聞かれたことでもいいですし。私が言った方がいいですか?
(質問者)そうですね。
そうですか。坐禅と瞑想の違いでいいですか?はい。坐禅と瞑想の違いは何ですか、というご質問です。広義において同じでもいいんですけれども、ただ瞑想っていうと、範囲がとても広いですよね。いろんな瞑想があります、何とか瞑想とかって名前も付いていたりして。それにまた、その瞑想の目的もいろいろありますね。仏を観想して、その仏が本当に現れるように見えるまで何かをするとか、エネルギーを使って何とかしようとするものとか。で、坐禅と呼んでいるのは、禅の法脈の中で受け継がれてきた行法でして、お釈迦様の悟りを体現しようとする目的があります。仏教の瞑想の、一番中心になるものを指し示したいがために、あえて坐禅と呼んでいるのだろうと思います。もし違う目的があるのであれば、例えば、何かリラックスした気分を味わうために坐るとか、瞑想するとか、仏を観想するというものであれば、坐禅とは違う種類の瞑想になるかと思います。
(質問者)先ほど六根から禅定、悟りに導かれる道というのがありましたが、もう少し詳しく教えていただけますか。
はい。六根というのは眼耳鼻舌身意といって、目や耳や鼻や舌、触覚である例えば手触り、あと意識のことをいいます。普段使っている我々の機能ですが、実は目で見ている、耳で聞いているというのは全部、錯覚なんです。簡単にいえば。目で見ている、耳で聞いている、って今こういう話をしたから、目や耳を意識した人もいるでしょう?それまで目で見ていることも、耳で聞いていることも、意識されていなかったと思うのです。無眼耳鼻舌身意。目もないし耳もないし鼻もない。実は全部、認識作用が人間の頭の脳で、そういうふうに「目で見ている」っていうふうな観念を立ち上げているから、「目で見た」って思っているのですよ。でも事実というのは、確認をする以前に、既に体験をしきっているのです。お尻の下に座布団ありますよね。今お尻の下に座布団があるっていう話をしたら、その感触を今、確認をしました。でもその前からずっと体験していたはずです。触覚もなく、座布団もなかったですね。だから、実際、本当に世界と一つとなって、一体となって、私たちは常にあり続けているのです。その意識を、眼耳鼻舌身意の、仮にそう名付けているもの、すなわち後から構築される二階建ての部分で、「私が目で何々を見ている」というふうな観念の世界を構築している。だから、そういうふうな認識が起こる以前のものに触れ続けていく、触れっ放しであったところに帰っていくのが坐禅です。坐っている時は、ただ音が鳴っていたら、これは鳴ったらすぐに過ぎ去っていきますね。でも、敢えて音について考えたりしたら、音がそこにある、とその音に対しての説明や物語が生まれてくる訳です。でも本来は全部、現象として流れている。そこに帰っていく感じですね。そこには目で見ているとか、耳で聞いているとかっていう認識も起こらない。起こる以前の、意識の原初のあり方。だから赤ん坊というのは、おそらく世界をそういうふうに見ているのではないかと思います。どうすればいいか。何もしないんです。壁のように坐るというのはそういうことで、ああだこうだしない。自分の坐禅に対して、取り計らいを一切加えない。そうすると、本性そのものが自然に現れてくる、ということです。
一つ例え話をしますね。ペットボトルの中に、水と砂が一緒に入っていて、それをグシャグシャグシャっとかき混ぜてから置いておきます。このペットボトルの中の泥水が、また澄んだ水が現れてくるようにする為に、私たちができる最大の努力というのは一体何か。動かさない。それが坐禅なのですね。水はずっとそこにあり続けているのですが、それが見えない。澄んだ水が見えない。だから何もしないことで、本質的な意識が現れてくる。その本質的な意識は、目もなければ耳もなければ鼻もなければ、ということなのです。説明だけ聞いても多分わからないと思いますが、坐禅が教えてくれます。体験が教えてくれます。ものと一つになる。音と一つになるという言葉もありますね。縁に触れて、こういう音を聞いたり何かを見た時に、それと一つになったりとか。お釈迦様が悟ったのは、夜明けの明星の星を見て、星と一つになった。だからそれまでの意識が落ちた、身心が脱落した。そうするにはどうしたらいいか。何もしない。で、坐ること。壁のように坐ることなのですね。
それをするにはどうしたらいいですか?というのは聞かないで下さいね。それをやめるのが坐禅です。そこが、修行の勘所になってきます。ずっと何かをし続けていますから、坐禅中。もっとこうしたらこうなるだろうか、こういう結果が現れるだろうか、こんなあり方じゃ駄目じゃないか、これでは坐禅になっていないのではないか。真実はどこにあるのだろうか。そんな葛藤を通じて、いまの自分の心のあり方が見えてくると思います。じゃあ、本当の自分というのは、何だろうか。自己探求ですね。それが坐禅の実践になってくる、ということです。
お時間がまいりましたので、今日は、以上で終了となります。どうもご清聴有難うございました。