語録・経典5『十牛図』序文

『十牛図』序文 慈遠

夫れ諸仏の真源は衆生の本有なり。迷いに因るや三界に沈淪し、悟りに因るや頓に四生を出ず。所以に諸仏として成るべき有り、衆生として作るべき有り。是の故に先賢悲憫して、広く多途を設く。理は偏円を出し、教は頓漸を興こし、麁より細に及び、浅より深に至る。末後に青蓮を目瞬して、頭陀の微笑を引き得たり。正法眼蔵、此れより天上人間此方他界に流通す。其の理を得るや、超宗越格、鳥道の跡無きが如し。其の事を得るや、句に滞り言に迷い霊亀の尾を曳くが若し。間、清居禅師有り。衆生の根器を観て病に応じて方を施し、牧牛を作いて以て図を為し、機に随って教を設く。初は漸白より力量の未だ充たざることを顕わし、次いで純真に至って根機の漸く熟するところを表す。乃ち人牛不見に至って、故に心法双び亡ずることを標わす。其の理や已に根源を尽くし、其の理や尚お莎笠を存す。遂に浅根をして疑誤せしむ。中下は紛紜として、或いは之を空亡に落つるかと疑い、或いは喚んで常見に堕つると作す。今、則公禅師を観るに、前賢の模範に擬え、自己の胸襟を出し、十頌の佳篇、光を交えて相映ず。初め失処より、終わり還源にいたるまで、善く群機に応ずること、飢渇を救うが如し。慈遠、是を以て妙義を探尋し、玄微を採拾す。水母の以て飡を尋ぬるに、海蝦に依って目と為すが如し。初め尋牛より、終わり入鄽に至って、強いて波瀾を起こし、横まに頭角を生ず。尚お心として覓むべき無し、何ぞ牛として尋ぬべき有らんや。入鄽に至るにおよんでは、是れ何の魔魅ぞや。況や是れ祖禰了ぜざれば、殃い児孫に及ばん。荒唐を揆らず、試みに提唱を為す。

【現代語訳】

さて、そもそも諸仏の真源である仏性は私たち皆に備わっている。迷うなら三界に沈んでしまうが、悟ればたちまち四生輪廻の苦しみから解放される。ここに諸仏になるか、衆生となるかの境がある。ゆえに、釈尊は衆生を哀れみ、悟りに至るための道を種々設けられた。その道理には、部分的なものと全体的なものがあり、教えには頓と漸がある。いずれにしてもこの教えによって粗より密に及び、浅より深いに至るようになる。釈尊が金波羅華の花を拈じ、摩訶迦葉尊者が微笑したことでついにダルマが伝わった。正法眼蔵は、これによって天上界、人間界、そして全宇宙に拡がることとなった。教えの背後にある「本質」を得るなら、全ての枠を破って、空を飛ぶ鳥がその跡をどこにもとどめないような自由自在の境地を得るが、教えの表面的な「表現」にこだわるなら、一言一句に惑わされて、亀が砂浜を歩くと引きずった尻尾の跡が残るように、心は自在さを欠くことになろう。近頃、清居禅師という方が、衆生の器量をみて、その病に応じて処方箋を施された。つまり、牛の絵を描き、それぞれの機根に応じて徐々に教え導こうとされたのである。初めから牛が徐々に白くなっていくことで、未だ力量が充分でないことを表現し次第に白くなって真っ白の牛、つまり純真の境地に至って、根機がようやく熟した様子を示した。絵の最後には人も牛も消え失せて、心も法も共に無くなることを表した。その教理はダルマの本質を表現し尽くしたものであるが、それでも未だ最後に蓑笠のような一円相を遺す。これでは初級者は誤解をするだろう。初級、中級の人はこの一円相についてあれこれと詮索し、何も無くなってしまうのではないかと虚無を感じたり、外道でいうアートマンのようなものが永遠に独立して存在するのかという観念をつかんでしまう。今ここに、則公禅師(廓庵)が、先師(清居禅師)の方便を手本としながら自らの創案を加えたものがある。十篇の漢詩と絵が互いに照らし合うように引き立てあっている。最初の見失った牛を訪ねていくところから、最後の源に還るところまで、人それぞれの機に対して応じる様は、飢えている人に食べ物や水を施すが如くである。私、慈遠は、この十牛図によって禅の妙義を探り、その深い機微に触れることが出来た。それは目のないクラゲが餌を探すため海老の目を借りるようなものであっただろうか。初めの尋牛より、終わりの入鄽に至るまでの親切すぎる解説は、もしかすると波のないところに波瀾を起こし、牛の横っ面に角を生やすような余計なものかもしれない。そもそも求めるべき心などないはずなのに、どうしてわざわざそれを牛に例えて探そうというのか。入鄽に至っては、まるで狂気の沙汰ではないかと思われよう。しかし、祖師の真意が正しく理解されるようにしておかなければ、わざわいは遠く後世にまで及んでしまう。ゆえに、荒唐無稽に思われることを恐れず、ここに講釈を試みる。 

第一 尋牛

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《禅〜意識の真源に帰る旅〜》

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