経典・語録4『塩山仮名法語』

『塩山仮名法語』抜隊得勝  

(現代語訳)

輪廻の苦を免れたいと思うなら、直に成仏の道を知らなければならない。成仏の道とは、自心(意識の本源)を悟ること、これである。

自心とは、父母も未だ生まれず、我が身も存在するより前から、今に至るまで移り変わる事がないもの、これこそが一切衆生の本性であり、本来の面目という。この心は元より清浄であり、この身が生まれる時も生まれるという相もなく、この身が滅す時も死ぬという相もない。また、男女の相もなく、善悪の色もない。譬えようもないが故に、これを仏性という。しかも、あらゆる念は、この自性のうちに生じている。それは大海のうちに波が起こるようなものである。鏡に映像が映ることにも似ている。この故に、自心を悟ろうと思うなら、まず念の起こる源を見るべきである。ただ寝ても覚めても立っても坐しても「自心これ何ものぞ(この意識の本源は何か)」と深く疑って、悟りたいという望みの深さを、修行とも功夫とも志とも道心とも名付けるのである。また、このように自心とは何かと疑うことを、坐禅というのである。

一日に千巻万巻の経典や陀羅尼を詠んで、千年万年とそれを怠らないことも、一瞬でも自心を見ることには及ばない。そのような有相の行は、ただ一旦福徳の因縁とはなっても、その福因が尽きてしまったら、また三悪道の苦を受けることになるのである。一念の功夫は、最終的には悟りとなる成仏の因縁となる。たとえ十悪五逆の罪を造った者でも、一念をもって自心を悟れば、それはそのまま仏である。かといって、悟れば済むからということで罪を造るべきではない。自ら迷って悪道に堕ちるような者は、仏も祖師も助けることは出来ない。

たとえば、幼い子が父のそばに寝て、夢の中で人に叩かれたり、病気におかされたりして苦しみを受けている時、「お父さんお母さん、私を助けて」と呼んだとしても、夢を見ている本人の心の中へは行くことが出来ないので、父母も助けることが出来ないようなものだ。たとえその子に薬を与えようとしても、目覚めなければ受け取ることが出来ない。自ら目覚めることが出来るのならば、夢の中の苦しみから逃れるのに、他人の力を借りる必要もない。自らの心がそのまま仏であると悟れば、たちまち輪廻を免れる事もまた同様である。もし仏が衆生を助けようとされるなら、誰か一人でも見捨てて地獄に落とすようなことがあろうか。この道理が真実であるということは、自ら悟らなければ知ることは出来ない。

そもそも只今、目に色形を見、耳に音声を聞き、手を挙げ、足を動かしている主、これは何ものかと見れば、これは皆自心の為す仕業であるとは誰しもが心得てはいるが、本当のところ、これが一体どういう道理であるかはよく分かっていない。これ(自心)が無いと言おうとしても、用いるに随って自在であることは明らかであるし、有ると言おうとしても、その姿形を見ることは出来ない。ただ不思議であるばかりで、とにもかくにも心得られる形は無いままに、了見も更に絶え果ててしまい、遂にどうしようも出来なくなる。これこそ良い功夫である。このような時、精進を失うような退屈の心もなく、いよいよ志が深くなり極まる時、そして深い疑いの念が底に通って破れた時、自心が仏であることに疑いがなくなり、生死の厭うべきもなく、法を求むべきもなくなる。

この虚空世界こそが「わたし」の一心である。

たとえば、夢の中で外に迷い出て、自分の故郷へ帰る道を見失って、人に尋ねたり、あるいは神仏に祈ったりしても、未だに帰ることが出来なかったのが、その夢から目覚めてしまえば、もとの自分の寝室の中にいる。この時、自ら夢の中の旅より帰るには、目覚めるより外に別の道はないと知るようなものである。これを本に還り源に還るともいい、安楽世界に生まれるともいう。これは多少の修行の力を得る為の筏(方便)である。坐禅をたしなみ、功夫をなす人なら、在家も出家もこれくらいのことは心得ているものである。しかし、こういうことは功夫をしない人には到底知ることが出来ない。

だが、これがもうすでに真の悟りであり、自らの法において疑いなしなどと思うなら、それは大いなる誤りである。銅を見つけたことで、本当に求めていた金を望むのを止めるようなものだ。もしこのような想いが生じた時は、勇気を奮って、次の様に更に深く功夫をなすべきである。

我が身を見ればそれは幻の如く、水の泡影の如くである。自ら心を見れば、虚空の如く形もない。この中に耳に音声を聞き、響きを知る主、これは何物かと、少しも気を緩めることなく、深く疑うばかりになれば、更に知られる道理が一つもなくなり果てて、我が身の有ることも忘れ果てた時、これまでの見解が絶え果てて、疑いが十分になった時、同時に悟りも十分なものとなるというのは、桶の底の抜けてしまった時、入れた水が全く桶に残らないようなものである。それは朽ちた木に忽ち花が開くようなもの。もしこの様であるならば、法において自在を得た大解脱の人といえる。

しかし、たとえその様な悟りがあったとしても、幾度も悟られるような悟りなどは打ち捨てて、悟る主に還りつき、根源に帰ってそれを堅く守るならば、情識が尽きるのに随って自性が曇りなく晴れ渡るのは、玉を磨くに随って光が増すようなものであり、遂には必ずその光明は十方世界を照らすことになる。これを疑ってはならない。

もし志が深くなく、今生のうちにそのように悟ることが出来なくとも、功夫の中で臨終した人は、来世には必ず容易に悟ることが出来るというのは、昨日よく計画しておいたおかげで、今日は予定の道のりを行くのが容易いというようなものだ。

坐禅功夫の時、念の起こることを厭うべきでも愛すべきでもない。只その念の起こる源の自心を見極めるべきである。心に浮かんだり目に見えることは、皆幻であり真実ではないと知って、恐れたり、貴んだり、愛したり、厭うたりしてはいけない。心が何にも染まること無く虚空のようであるなら、臨終の時も天魔に侵されることはない。また功夫の時は、このような事、このような道理をも、一つも心中に置くこと無く、ただ「自心これ何ぞ」と参究すべきである。また「只今一切の音声を聞く主は何物ぞ」ということを悟れば、この心が諸仏と衆生の本源である。

観音は音を聞く主を悟られたが故に観世音と号するのである。ただ「この音を聞いているものは何物ぞ」と立っていてもこれを見、坐していてもこれを見ようとする時、もはや聞くものは聞くものとして知られず、功夫も更に尽き果てて、いよいよ心が切迫していく。この中においても音が聞こえることは断たれることはないから、ますます深くこれを見極めようとする時、心が切迫したという相すら尽き果ててしまい、晴れた空に一片の雲も無いような意識が現れる。

この中には「私」というべきものは無く、聞く主も見当たらず、この心は十方の虚空と等しくありながら、しかも虚空と名付けるべきところも無い。この境地に至った時、これこそが悟りだと思うだろう。しかし、この時また大いに疑わなくてはならない。「この意識の中で誰がこの音を聞いているのか」と。

一念も生ずることなく参究していけば、虚空の如く一物も無いとわかったところも絶え果てて、更に何の味わいも無い漆黒の闇のような状態の中においても退屈する心も無く、「さてこの音を聞くもの、これ何物ぞ」と、力を尽くして疑いが極まった時、その疑いが大きく破れて、まるで死に果てた者が蘇るようになる。これが悟りである。

この時初めて十方の諸仏、歴代の祖師に一斉に相見えることになるのである。さて、もしこの様になった時、この公案を挙げて見るがいい。

「僧、趙州に問う。如何なるか是れ祖師西来意。答えて曰く、庭前の柏樹子。」

この公案に少しでも疑いが起こるなら、また初心に帰って元の様に「音を聞くものは何ものぞ」と参究しなくてはならない。

今生のうちに明らかにせずして、いつそれが出来るというのだろうか。一度人身を失ってしまえば、三悪道の苦しみから永く免れることは出来ない。一体誰が隠した悟りだというのか。それはただ自らが道心を無くしたが故にと思い知って、高く精彩を付けて修行に励まなくてはならない。

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《禅〜意識の真源に帰る旅〜》

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